「危機を未然に防止する者は、決して英雄になれない」という。危機を未然に防止すれば、人は危機だったという認識さえ持たない。危機の認識がなければ、「なぜ危機は防げたか?」という総括もなされない。そこに英雄は生まれるはずもなく、まして教訓や改善策なども得られない。

危機管理が正常に機能すれば英雄は生まれない

福島第1原発1号機に窒素ガス、6日午後にも注入 水素爆発防止

水素爆発を起こした福島第一原子力発電所の1号機と2号機〔AFPBB News

 今回の福島第一原子力発電所の事故であるが、仮に現場の判断で早々にベントを実施して、消火系から海水注入を実施していたら、メルトダウン、水素爆発もなく、放射能汚染も今よりはるかに低いレベルで抑えることができただろう。

 ただ、実行責任者は英雄どころではない。放射能汚染と廃炉の責任を取らされ、処分されていたに違いない。

 また予備電源が確保できていたなら、「止める、冷やす、閉じ込める」は成功し、約1カ月もすれば原発システムは再稼働されていただろう。よもや危機寸前であったことなど話題にもならず、原発制御の難しさを再認識することもなく、やがて人々の記憶から消え去っていたに違いない。

 反面、今回のような大事故が起こってしまうと、被害の甚大さに冷静さを失い、当事者の自己防衛本能も手伝って、真の教訓を抉り出す理性的、かつ冷静な分析は行われ難いのが常である。

 このように事故を未然に防止しても、あるいは大事故が発生しても、いずれも危機管理の教訓を蓄積することは容易ではない。危機管理の不手際が繰り返される原因がここにある。

初めてのことに弱い日本の国民性

 福島第一原発事故には、多くの危機管理の教訓が埋蔵されている。政府や東電の対応に感情的なバッシングを加えることはやさしい。だが、払った大きな代償を東電バッシングというカタルシスで済ますには、あまりにももったいない。

 政府、東電の取った対応を冷静に分析し、そこから真の教訓を引き出し、社会で広く共有していくことは危機管理に強い国造りに欠かせない。

 日本では目標が明確で「やるべきこと」が判明している時、組織は素晴らしい力強さを発揮する。だが、前例のない危機には極めて弱い。阪神・淡路大震災の時、対応の拙さを指摘された時の首相が「何しろ初めてのことじゃから」と言った言葉に象徴されている。

 臨機応変さが求められる狩猟民族としてのDNAは、日本人には組み込まれていないようだ。だがこれは言い訳にはならない。今回の事故は人命や財産、あるいは社会的信用や安定が失われる恐れがある時に、対応を間違えれば組織や企業などが致命的なダメージを受けることを教えてくれている。