10月2日、日本経団連関係者の間に激震が走った。麻生太郎政権の発足を機に、経済財政諮問会議の大幅なメンバー変更が検討され、この日政府が新たな陣容を伝えてきたのだが、その中に「御手洗冨士夫」の名前がなかったのである。
小泉改革の推進エンジンとなった経済財政諮問会議だったが…
中央省庁再編に併せて同会議が設置されたのは2001年1月。当時の首相は退任間近の森喜朗で「旧大蔵省が長らく支配してきた予算編成の主導権を首相官邸が握る」という大義をこの迂闊な宰相が認識するはずもなかったが、周知のように、3カ月後に森に代わって首相の座に就いた小泉純一郎は構造改革の “推進エンジン” として同会議をフル活用した。
官邸サイドは経済財政担当相の竹中平蔵、民間側は経団連会長の奥田碩が主要メンバーとして会議をリードし、予算編成の概算要求基準の方向性を示す「骨太の方針」の策定などを通じて一連の小泉改革の実現に大きな役割を果たした。
小泉の後を継いだ安倍晋三、次の福田康夫の政権下で同会議の戦略的意義は半ば骨抜きにされたが、それでも経団連は御手洗がメンバー入りした直後の一時期「経済財政諮問会議室」の設置を検討するなど、時の財界総理にとって同会議のメンバーシップは「指定席」と誰もが考えていた。
今回の「御手洗外し」の経緯はこうだ。10月12日に2年の任期が満了するのに合わせて、諮問会議の4人の既存メンバー(御手洗のほかに、丹羽宇一郎伊藤忠商事会長、伊藤隆敏東大教授、八代尚宏国際基督教大教授)は形式上、辞表を提出していた。
福田から麻生への政権交代もあり、当初は御手洗以外の3人を入れ替えると見られていたのだが、土壇場になって4人全員の交代が浮上してきた。10月3日の閣議後の記者会見で経済財政担当相の与謝野馨は「4人全員の交代の方がきれいだし、理由が立つ。首相と相談した結果の判断だ」と説明。あくまで「首相の判断」であることが強調された。
後任には有力な次期経団連会長候補が2人
この人事について、御手洗は「経団連としての発言が自由にできるようになる」と意に介さぬ風を装っているとされるが、政府に見放されたショックの大きさは想像に難くない。しかも、新たな民間枠の会議メンバーはトヨタ自動車会長の張富士夫と新日本製鐵会長の三村明夫。いずれも「ポスト御手洗」の呼び声が高い経団連会長の有力候補である。
詳細は後述するが、9月に入って東京地検特捜部が大分県のキヤノン工場建設を巡る裏金と脱税疑惑の捜査に近く着手するとの観測が流れ始めた。御手洗自身に司直の手が及ぶことはなくても、キヤノンのトップとして道義上の責任を問われるのは必至。スキャンダルの噂と諮問会議人事の複合効果で、政財界で昨年来囁かれていた「御手洗辞任説」が再燃することも十分に考えられる。
今回の諮問会議人事に限らず、このところ永田町と大手町のすきま風が目立っている。その原因・背景として、少なからぬ関係者が異口同音に指摘するのが、経団連を率いる御手洗の “政治オンチ” ぶりである。
2006年の就任当初、御手洗は当時の首相である安倍に露骨にすり寄った。具体的にはベトナム、中東、インドへの安倍の外遊に合わせ、御手洗はいずれも自ら率いる経団連の大型訪問団を同行させたほか、2007年の年初に公表した経団連の中長期ビジョン(いわゆる「御手洗ビジョン」)に「希望の国、日本」と名づけ、「美しい国、日本」をスローガンにしていた安倍政権との二人三脚をアピールした。