写真提供:ゲッティ/共同通信イメージズ

 新しいビジネスモデルは、常に人々のライフスタイルや思考に大きな革新をもたらしてきた。それは世界の市場を劇的に変えただけではなく、人類の文化や歴史そのものにも影響を及ぼした。『ビジネスモデル全史[完全版]』(三谷宏治著/日経BP 日本経済新聞出版)から一部を抜粋・再編集。

 任天堂がファミリーコンピュータで生み出した「プラットフォーム・モデル」は何が画期的だったのか?

任天堂がファミコンで編み出した「プラットフォーム・モデル」

ビジネスモデル全史〔完全版〕』(日経BP 日本経済新聞出版)

■ 花札・トランプ会社 任天堂、電子ゲームに参入する

山内 溥
任天堂創業者の曾孫。祖父が急逝し22歳で社長となる。苛烈な労働争議を新商品のヒットで乗り切る。多角化で多くの失敗をくり返し経営難に陥るが、「ゲーム&ウォッチ」など電子ゲームの成功で復活。1992年には経営難だったシアトル・マリナーズに出資、支援した。経営に口を出したのは「イチローを獲れ」のみ。

 花札の製造販売から始まった任天堂(1889)の、若き3代目山内溥(ひろし)(1927~2013)は、第二次世界大戦後の1949年、祖父の急逝(きゅうせい)により22歳で社長の座につくことになりました。最初の仕事は労働争議(そうぎ)の解決であり、その結着には6年を要し彼自身、体を壊すほどでした。しかし彼は、博打(ばくち)用で内職品であったトランプを、子ども向け玩具の工業品に変えることで、大いに飛躍させました。

  • プラスチック製にし、自社製造工場を建設
  • ディズニーのキャラクターをつけ、トランプゲームの解説書を添付

 これを足がかりに任天堂は玩具メーカーに転身します。山内は設備保守要員としてヒマを持て余ましていた横井軍平(ぐんぺい)(1941~1997)を抜擢(ばってき)しましたが、横井の発想力は抜群で、ウルトラハンド(1966)、ウルトラマシン(1968)、光線銃SP(1970)などのヒット作となりました。