神戸市、須磨浦公園内にある「源平史跡・戦の濱」の石碑

 歴史上には様々なリーダー(指導者)が登場してきました。そのなかには、有能なリーダーもいれば、そうではない者もいました。彼らはなぜ成功あるいは失敗したのか?また、リーダーシップの秘訣とは何か?そういったことを日本史上の人物を事例にして考えていきたいと思います

一ノ谷の合戦に勝利

 寿永2年(1183)閏10月、鎌倉の源頼朝は、異母弟の源義経、中原親能を伊勢国まで進軍させます。これは、10月に朝廷が発給したいわゆる「寿永二年十月宣旨」(東海・東山道の荘園・国衙領を元のように荘園領主や国司に知行させる。この命令に従わない者があるならば、頼朝に命じて従わせるとの内容)を施行するとの名目でした。平家追討のため、都から西国に下向していた木曽(源)義仲は、義経ら「鎌倉軍」の動向を掴み、急いで帰京します。

 留守中、鎌倉軍に都を衝かれることを恐れたのです。伊勢に進軍した義経らの軍勢は「僅かに五百騎」(貴族・九条兼実の日記『玉葉』)。伊勢国の武士や、平信兼(伊勢平氏)の軍勢が加勢していました。加勢を得た義経は、寿永3年(1184)1月中旬、都へ進軍します。

 一方、頼朝が派遣した源範頼(頼朝の異母弟)の軍勢も、美濃から近江に軍を進めます。対する義仲方は、軍勢を2手に分けて、義経軍を迎え撃とうとしました。しかし、1月20日、義経軍は宇治川を渡り、京中に入ります。義仲は、後白河院を連行しようとしましたが、敵勢が迫ったため、それを断念、近江国に向けて逃走。最終的には、義経軍の武士により、討たれてしまうのです。

 翌日、義経は義仲の首を取ったことを、朝廷に報告しました。が、義経らは、1月29日には、今度は平家追討使として、西国に派遣されることになります。都落ちした平家でしたが、再び勢いを盛り返し、摂津国まで進出していたのです。範頼の軍勢は、山陽道から生田へ。義経軍は、丹波路から一ノ谷に向かいます。

 そして、2月7日、平家方との一ノ谷の合戦が勃発するのです。一ノ谷の合戦と言えば、義経軍による鵯越の逆落としが有名です。険しい獣道である鵯越、急峻な崖を馬で駆け下りる義経軍。軍記物語の『平家物語』などでも描かれてきた有名なシーン。が、「山方」より攻めて「山の手」を攻略したのは、『玉葉』によると多田行綱の軍勢だったようです。