写真右_出所: 新華社/共同通信社

 偶然の発見・ヒントからヒット商品が生まれたケースがある。日本初の乳酸菌飲料で、発売されてから100年以上愛飲されている「カルピス」も、その一つである。

 社史研究家の村橋勝子氏が小説顔負けの面白さに満ちた社史を「意外性」の観点から紹介する本連載。第9回はカルピス(現在はアサヒ飲料に統合)を取り上げる。

蒙古民族の活力源

「カルピス」の生みの親である・三島海雲は、大阪の教学寺の長男として生まれ、13歳で得度し、生涯僧侶にあった。22歳で京都にある西本願寺文学寮を卒業すると、寺を継ぐことなく英語の教師になったが、文学寮が1901年(明治34年)に東京に移転して仏教大学になったことを知ると、同大学の最高学年の3年に編入学した。

 大学に入って間もなく、三島は大学から中国へ渡るように勧められた。当時の中国は日本の青少年のあこがれの地で、無限の可能性と夢を求めて、多くの若者が広大な中国へ渡っていった。海雲も1902年、25歳で北京に渡り、文学寮の先輩、中島裁之が主宰する東文学舎に寄宿した。ここで海雲は中国語を学ぶ一方、日本語を教えながら数カ月を過ごし、直隷省(現・河北省)趙州中学校の教官として赴任した。

 半年後、海雲は土倉五郎と知り合った。日本の山林王といわれた奈良の土倉庄三郎の五男で後にラクトー株式会社設立にあたって海雲に多大な援助をした土倉竜治郎の弟である。

 1903年10月、海雲は五郎と北京に雑貨貿易商「日華洋行」を設立して事業家に転身した。