京都御所 写真/hana_sanpo_michi/イメージマート

 歴史上には様々なリーダー(指導者)が登場してきました。そのなかには、有能なリーダーもいれば、そうではない者もいました。彼らはなぜ成功あるいは失敗したのか?また、リーダーシップの秘訣とは何か?そういったことを日本史上の人物を事例にして考えていきたいと思います

本稿は「Japan Innovation Review」が過去に掲載した人気記事の再配信です。(初出:2024年8月21日)※内容は掲載当時のもの

叔父・道長を追い抜いて昇進

 NHK大河ドラマ「光る君へ」では、平安時代中期の公卿・藤原伊周を俳優の三浦翔平さんが演じていました。叔父・藤原道長のライバルとして描かれていましたが、妹で一条天皇の中宮・定子に「皇子を産め」と執拗に迫るなど狭量な人物描写が目立ちました。では、伊周とはどのような人物だったのでしょうか。

 伊周は、天延2年(974)、藤原道隆の次男として生を受けます。母は、高階成忠の娘・貴子。伊周の幸運は、父・道隆が関白と氏長者を藤原兼家(道隆の父)から譲られたことでしょう(990年)。要は、父が政権の頂点(今風に言えば総理大臣)に立ったのでした。

 道隆はその後、摂政・内大臣にもなりますが、それに伴い、子の伊周もグングンと出世していくのです。伊周21歳の時、内大臣に就任。年長の叔父・道長をも追い抜いて昇進していくのでした。これは紛れもなく「親の七光り」と言うべきでしょう。伊周は順調に出世していたのですが、転機がやってきます。父・道隆の死です。長徳元年(995)、道隆は糖尿病と思われる病が悪化して、この世を去るのです。

 亡くなる前、道隆は後任の関白に伊周を望んだようですが、一条天皇はそれを許しませんでした。伊周には内覧(関白に準じる職)の宣旨(天皇の命令を伝える文書)が下ります。道隆の死後、後継の関白には、その弟・藤原道兼が就任。そればかりか、伊周の内覧も停止されてしまいます。

 関白・道隆が病の間は、文書や宣旨は先ず関白が「触れ」てから、次に「内大臣」(伊周)が「触れ」るようにと天皇の命令にあったものを、伊周は専ら内大臣に委ねて欲しいと迫ったことがありました。伊周にも関白就任のチャンスがなかった訳ではないと思われますが、前述のような強引な振る舞いが、天皇の伊周へのイメージを悪くしたと考えられます。

 関白となった道兼ですが「7日関白」と称されるように、病により、あっという間に亡くなります。