「今困っているわけではないのだから、わざわざ新しい仕組みを導入しなくてもいいのではないか」こうした声により変化が進まない例は、世の中のあちこちで見られるのではないだろうか。当連載は、オランダなどで浸透する社会構造を変化させる最先端の手法を解説した『トランジション 社会の「あたりまえ」を変える方法』(松浦正浩著/集英社インターナショナル)から一部を抜粋・再編集。合意形成し、軋轢を生まずに古い仕組みを新しく変えるための実践法をお届けする。

 第1回は、社会の仕組みを理解するために欠かせないフレームワークMLP(マルチ・レベル・パースペクティブ)や、私たちが暮らす社会の3層構造、そして本書のテーマである「トランジション」とは何かについて解説する。

<連載ラインアップ>
■第1回 なぜ裸で外を歩いてはいけないのか?社会が大きく変わるトランジションとは(本稿)
第2回 歴史的偉業、ホンダのCVCCエンジン誕生のきっかけとなった「無茶振り」とは?
第3回 ロイヤル・ダッチ・シェルを擁したオランダは、なぜ脱炭素化を加速できたのか


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構造とエージェント

 社会の仕組みの変化を語るときには、「マルチ・レベル・パースペクティブ(Multi-Level Perspective)」略してMLPという考えを理解する必要があります。これは、フランク・ヘールスという社会システムの研究者が2002年に提唱した概念です。片仮名16文字だとちょっととっつきにくいかもしれませんが、そんなに難しいことではありません。日本語では「多層的視点」と訳せるでしょうか。

 このMLPの説明に入る前に、社会学の基本的なものの考え方として、「構造」と「エージェント」[※1]の2つのレベルが挙げられます。私たち個人は「エージェント」で、さまざまなルールや「あたりまえ」に従って、行動しています。そのルールやあたりまえのことを「構造」と呼びます。

[※1]エージェント(agent)は「行為者」と訳されることもありますが、本書では「エージェント」と表記します。

 エージェントは、構造に従って行動します。たとえば、私が道路を素っ裸で歩いていたら、誰もがおかしいと思うし、警察に捕まるでしょう。エージェントである私が、「裸で路上を歩かない」という構造に不適合だから、みんなが白い目で見たり、警察につかまったりするわけです。他方、その構造も、エージェントの意思によって変化することがあります。たとえば、昭和の時代は職場でスーツを着るのが当然でしたが、クールビズが普及して、いまや新しいあたりまえが広まっています。環境省が後押ししたのもありますが、むしろオフィスで働くみなさんの服装が徐々に変化してきたことで、職場の適切な服装に関する「構造」が変化したのです。

 このように、エージェントは構造に従って行動しますし、構造もエージェントの意思で変わります。このお互いに影響を与え合う関係を「再帰性」と言って、とくに構造とエージェントの関係については「構造化理論」として、アンソニー・ギデンズという社会学者が定式化しています[※2]

[※2]アンソニー・ギデンズ(2015)『社会の構成』門田健一 訳、勁草書房

3層構造のMLP

 さて、構造とエージェントという上下関係が見えたところで、MLPの説明に移りましょう。ヘールスは、2002年の論文で、構造の上にさらにもう一つのレイヤーを置いた、3層構造で考えるべき、と提唱しました[※3]

[※3]Geels(2002)“Technological transitions as evolutionary reconfiguration processes: a multi-level perspective and a case-study”Research Policy, 31, pp.1257-1274

 そのレイヤーとは、「ランドスケープ」と呼ばれ、私たちの人間社会が置かれている自然環境や国際情勢などを指します。

 いちばんわかりやすいのが気候変動の問題です。これまで繰り返し説明していますが、人類は、産業革命によって化石燃料を主軸においた社会経済システムを構築してきました。この社会経済システムこそが「構造」です。しかし、この構造が理由で、ランドスケープとしての私たちの地球が持っている温室効果を狂わせてしまい、人為的気候変動がこれから深刻になると考えられています。 

 エージェントが構造にしたがって行動するように(=私が裸で路上を歩かないように)、構造もランドスケープに従って修正できれば、問題がないはずです。つまり、気候変動という問題を認識して、私たちの社会の仕組みが変わればよいのです。

 しかし、現実にはそう簡単ではありません。これまで200年かけてできあがってきた化石燃料ベースの社会経済システムを、1年やそこらで別のものに変えることは難しいでしょう。具体的には、ガソリンで動いている自動車をすべて電気自動車に置き換えるような話ですから、大変です。また、従来の構造に従って生活しているエージェント(私たちのこと)がいるので、急に構造を変えましょう、明日から電気自動車に乗り換えましょうと言われても、さすがに無理な話です。

 ですから、構造がランドスケープに適応していないとわかっていても、変化を嫌うエージェントは構造を現状維持すべく動いてしまうのです。だからといって、構造を変化させずにおくと、ランドスケープとの間の歪みがもっと溜まって、どこかのタイミングで大災害、大恐慌として爆発してしまう危険があるのです。

 このように、MLPを導入し、社会を3つのレイヤーで考えることで、中間にある構造の変化を促進させる必要性を、ヘールスは説いたのです。