ロシアの植物学者・マキシモヴィッチとは
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カール・ヨハン・マキシモヴィッチ
マキシモヴィッチは、東アジアの植物研究の権威である。
1827年、モスクワ近郊のツーラで生まれた。冨太郎より35歳年長である。
医師を目指してドルバット大学に入るが、大学で植物学者のブンゲ教授と出会い、植物分類学に転じた。
卒業後は、ロシア帝室植物園に務めている。
1853年、26歳のとき、ロシアの学術探検隊に加わり、フリゲート艦・ディアナ号で世界周遊に旅立つが、途中で下船し、アムール河沿いの植物調査を行なった。
このときの成果を1859年に『アムール地方植物誌予報』として出版し、科学や芸術などの優れた業績に与えられるデミドフ賞を受賞。
植物学者としての地位を築いた。
万延元年(1860)年には、植物調査のため、箱館(函館)に来航している。3年5ヶ月もの間、日本に滞在し、プラント・ハンターとして雇った須川長之助に、各地の植物を採集させた(当時、外国人は開港場から十里までしか、旅行が許されなかったため)。
須川長之助は、冨太郎ともゆかりがある人物である。
マキシモヴィッチは帰国後、ロシア科学アカデミーの会員となった。
ロシアへの夢、叶わず
このマキシモヴィッチに矢部田ら日本の植物研究者は、採集した植物標本を送り、学名を決めてもらっていた。
冨太郎も、約800点もの標本を送っている。
冨太郎は神田駿河台(東京都千代田区)のニコライ主教に事情を説明し、ロシア行きの仲介を頼んだ。
ニコライ主教は快諾し、マキシモヴィッチへ手紙を送ったが、冨太郎のロシア行きは叶わなかった。
翌明治24年(1891)2月16日、マキシモヴィッチが病死してしまったからだ。
冨太郎は深い悲しみと絶望に陥ったと、自叙伝で述べている。