石版印刷屋の主人が仲人に
富太郎は毎日のように人力車を止めて菓子店に立ち寄り、恋心を募らせていった。
ところが、富太郎は壽衛の名前すら聞き出せなかったようで、石版印刷技術を習っていた印刷所の主人・太田義二に、「仲を取り持ってほしい」と頼み込んでいる。
太田の尽力により縁談はまとまり、同年の10月には、根岸の御院殿跡にあった村岡家の離れを借りて所帯を持っていたようだが(渋谷章『牧野富太郎 私は草木の精である』)、富太郎は自叙伝で、「結婚したのは、明治23年(1890)頃」と述べている。
いずれにせよ、冨太郎と壽衛は夫婦となった。
仲人は太田が務め、同年10月に第一子となる園子が誕生している。
合計13人もの子を産み、「来る年も来る年も、左の手で貧乏と、右の手では学問と戦った」と称する富太郎を支える、壽衛の献身の日々がはじまった。
『日本植物志図篇』の出版
富太郎が壽衛と所帯をもったとされる明治21年の11月には、富太郎の宿願である日本植物誌の「図版」である『日本植物志図篇』第一巻第一集を、自費で出版している。
富太郎はすべての植物の原図を描き、製版も自ら手がけた。
日本初の西洋式の植物誌となる『日本植物志図篇』は、田中哲司演じる徳永政市助教授のモデルと思われる松村任三助教授も褒め称え、植物学界からも絶賛された。
ドラマにもその名がよく登場するロシアの植物学者・マキシモヴィッチも、「図が正確で素晴らしい」と賛辞の手紙を送っている。
『日本植物志図篇』は、その後も続刊されていった。