平成の30年間が終わり、もうすぐ「令和」を迎える。1987年(昭和62年)に日本国有鉄道(国鉄)の分割民営化によって生まれた「JRグループ」の歴史も三十数年を数える。JR東海の初代社長を務めた須田寛氏は、研修中に駅員や車掌を務めたという異色の経歴を持つ。(JBpress)
(※)本稿は『私の鉄道人生“半世紀”』(須田寛著、イースト新書Q)の一部を抜粋・再編集したものです。
「23時40分」に訪れる安堵
夜23時40分がやってくると、ホッとすることがごく最近までありました。国鉄本社の営業課長や旅客局長だったころ、新幹線や特急が運行されている線区でなにか異常が起これば、すぐに目の前の電話が鳴りました。そんななか、当時23時40分は新幹線の最終列車が各終着駅に到着する時刻でした。
この時点で電話が鳴らなければ、今日という日は無事に終わったということ。実際、1週間の半分くらいは、ほぼ毎日なんらかの緊急電話連絡がありました。日常生活とは異なり、鉄道人の仕事はつねにトラブルと隣り合わせなのです。
現場から離れたあとでも、鉄道の安全を本能的に気にするようになってしまっています。新幹線が今日にいたるまで、列車運行にかかわる死亡事故ゼロで来られたことを、苦楽をともにした多くの方々の顔と一緒に思い出します。
鉄道人としての私の人生は、鉄道少年であった私が夢想していた世界とはまったく異なるものでした。そこには失敗と挫折、さらには心配がいまも続くばかりで、報われない日々だったと思います。私は、これから新鮮で自由な発想のもとに鉄道にかかわれる若い鉄道人のみなさんを、うらやましいと感じます。