ねじれ国会の影響で日銀総裁が空席になり、副総裁として総裁代行を務めるという異例の事態を経て、白川方明氏が第30代総裁に就任した2008年4月9日から、間もなく1周年を迎える。能弁で、ときにパフォーマンス色を帯びた前任福井俊彦氏の「動」に対し、就任時の白川氏はバードウォッチングが趣味で学究肌の「静」とされた。だが、未曾有の経済金融危機に直面する巡り合わせとなった結果、「守り」で動き続けることを強いられている。

 「本日付で総裁に任命されました。どうかよろしくお願い致します。また先程、委員の互選により政策委員会の議長に選任されましたので、ご報告致します」。白川総裁が2008年4月9日夜に開かれた就任記者会見でまず発したのは、このような腰の低さを感じさせる第一声だった(引用は日銀ホームページから)。白川総裁は「静」だという印象を強めるにふさわしい第一声だったと言えるだろう。その5年ほど前、2003年3月20日に当時の福井総裁が就任記者会見でまず発したのは、「今朝、小泉首相から総裁の辞令を拝命した。5年間という大変長い期間であるが、全力を挙げて日本経済の将来のために努力をしたいと思っている」という、力強い決意表明だった(同)。

 イラク戦争がたまたま同日に開始されたということで、福井氏は就任初日とは思えない機敏な動きを見せた。会見では、「早速、本日は、マーケットに対する流動性の供給を増やした。日本銀行の中に、対策本部を設け、私自身が本部長としてその任に当たっていくことになった。戦争が早く終わることを期待しているが、戦争が続いている間、あるいは、戦争が終わっても、その後に続く影響というものをしっかり把握しながら、的確なる対応をしたい。これがナンバーワンである」と発言。スタートダッシュによって、内外に「動」の総裁誕生を印象づけようとしていた。

 ところが、日銀のホームページで、「金融政策」のカテゴリーにある「金融政策に関する決定事項等」に掲載された項目を数えると、意外なことが分かる。福井総裁の場合、就任から1年間の掲載件数は48。これに対し、白川総裁の場合は67(2009年4月7日現在)で、前任者を大きく上回っているのである。また、臨時金融政策決定会合を開いた回数で見ると、福井総裁時代は、イラク戦争への対応で金融市場調節方針の「なお書き」を書き換えた2003年3月25日会合の1回だけ。これに対し、白川総裁になってからは、2008年9月18日、同29日、10月14日、12月2日と、4回も開催している(うち2回が米ドル資金供給オペ関連)。

 福井総裁時代にただ1度開催された臨時会合は、報道関係者の間では評判が良くなかったと言われる。旧日銀法下では、公定歩合などの政策変更が行われる日が事前には全く分からず、市場やマスコミにとって、毎日がいわば神経戦だった。新日銀法下では金融政策決定会合の開催日時が事前に公表されるため、そうした政策決定のタイミングについての不透明感が解消された。せっかくそうなったのだから臨時会合の多用は困る、という雰囲気が強かったように思われる。

 だが、白川総裁が就任してからの1年間は、そんな甘えが一切通用しないほど、世界の経済・金融環境は激動を続けてきた。そこに、臨時会合の開催件数が急増した理由、「静」であったはずの白川日銀が実際には福井日銀よりも激しく動き続けた原因を見出すことができる。能動的にそうなったのではなく、受動的にそうせざるを得なかった、ということである。筆者の見るところ、白川総裁が戦ってきたこの1年は、決して「攻め」ではなく、危機に直面して対応を迫られ続けた「守り」の1年だった。