東京・六本木にある日本学術会議庁舎(写真:西村尚己/アフロ)

(作家・ジャーナリスト:青沼 陽一郎)

 日本学術会議の会員の任命を巡り、菅義偉首相が候補者6人の任命を拒否したことが物議を醸している。

 この問題がメディアで取り上げると、すぐに目についたのは、「学問の自由」を侵すものである、という主張だ。菅首相の母校である法政大学の田中優子学長は、その旨を声明として、いち早く同大学のサイトに掲載している。

 多種多岐にわたる学会や学術団体が抗議の声明を発表し、大学教授などでつくるあちらこちらのグループも記者会見を開いては、決まり文句のように、「学問の自由」を侵すものだ、と公言している。

 だが、特別職国家公務員とされる日本学術会議の会員になれなかったことが、どうして憲法で保障された「学問の自由」を侵すものになるのか。まったくわからない。

むしろ在野精神と親和性が高い「学問の自由」

 私が卒業した大学の校歌には、「進取の精神」と「学の独立」が歌われている。早稲田大学の校歌だ。同大学は、政権の中枢を追われた大隈重信が立ち上げた東京専門学校が前身となっている。そこで唱えられた「学問の独立」は「在野精神」「反骨の精神」と結びついている。権力や時勢に左右されない、科学的な教育・研究を旨とする。むしろ、政権とは距離を置いたところでの、自主独立を重んじていた。

 日本学術会議の会員になれなくても、その学術分野で頂点を極めればいい。好きなことを学べばいいはずだ。むしろ政策提言こそ、政府と距離をおいた独自性が求められる。