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(文:白戸圭一)

 検察官の定年延長問題の渦中にいた黒川弘務・東京高検検事長(5月22日付で辞職)の「賭け麻雀」報道は、新型コロナウイルスで自粛生活を強いられている国民の間に猛烈な反発を巻き起こした。同時に多くの人が、麻雀のメンツが『産経新聞』と『朝日新聞』のベテラン社員(1人は編集部門を離れて管理職)だった事実に呆れ、大手新聞社と権力の「癒着」を改めて見せつけられた気分になっただろう。

 筆者は、今回の一件によって、日本の新聞社が長年、正面から向き合ってこなかった問題が改めて浮き彫りになったように感じている。

 それは「ニュースとは何か」という、ジャーナリズムの根幹に関わる問題である。

「取材」か「暇つぶし」とは思っていたが

 今回の問題をスクープしたのは『週刊文春』である。同誌編集部は、多くの国民が営業自粛や失業によって経済的に困窮している最中に、政権中枢に近い検察ナンバー2が「3密」状態で違法性のある賭け事に興じている事実を掴み、「これはニュースだ」と判断したから記事化したのだろう。

 その反対に、新聞記者たちは「黒川氏が賭け麻雀に興じている」という事実を知っていたどころか、自らも一緒に雀卓を囲み、同氏が帰宅するためのハイヤーも用意していたと報じられている。

 つまり、彼らはこの状況で黒川氏と雀卓を囲む行為を「取材」か「暇つぶし」のどちらかだとは自覚していただろうが、「ニュース」になってしまう行為とは想像もしなかったのだろう。

 だから「私は今日、渦中の検察ナンバー2と3密状態で雀卓を囲み、ハイヤーも提供した」などという新聞記事が彼ら自身の手で書かれることはなく、代わりに週刊誌が書いたのである。

 要するに、今回の問題では、「文春砲」と言われるスクープ連発の週刊誌のニュース感覚と、大手新聞社のニュース感覚の決定的な違いが見えた。そして、国民の多くは週刊文春とニュース感覚を共有していたから賭け麻雀に怒った。

 反対に、大新聞の社会部畑の記者のニュース感覚は、多数の国民のニュース感覚とは合致していなかった、ということである。

捜査当局者に食い込むこと自体は重要

 では一体、この新聞記者たちにとっての「ニュース」とは何だったのだろうか。

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