前言

 今回尖閣諸島領海内で発生した中国漁船と海上保安庁巡視船の衝突(22.9.7事実は漁船の体当たり)事件に係る民主党政権の対応は、中国の威圧に屈せられたと国民をいたく失望させ、世界世論から日本外交の大きな敗北と評され、我が国は国威を著しく失した。

 日本外交の弱さを暴露してしまった政府は、中国側の非を突き奮起して主導権を奪還し、外交主権の再確立を講ずべきであるのに、媚中外交に終始した。

日中首脳会談実施、衝突事件以降初の公式会談

APECでの日中首脳会談〔AFPBB News

 中国が世界世論の厳しさに直面し、また衝突時の模様を撮影したビデオがリークされ事実が明らかになりいささか傲慢ぶりを緩和する兆候を示すと「冷静」「戦略的互恵関係の早期回復」を隠れ蓑に、なりふり構わず中国の意を迎え、ただ首脳会談を持たんとするありさまは国辱的と非難されても抗弁できないものを感ずる。

 加えてその渦中、日本の対中態度を見ていたロシアが「日本は強い姿勢を取れない」と見透かし、日本のたびたびの警告にもかかわらず大統領が北方領土視察をあえて行い、我が国は東西から翻弄され、国際的弱さを内外に露呈してしまった。

 本問題に関し、野党側が糾弾すると政府は「では前政権時代はどうであったのか」と切り返すが、その非は認められるにしても、今回の政治的失態の責めを逃れることはできない。

 もちろん、歴代自民党政権が取ってきた主体性を欠いた処置が今回の事案の大きな伏線になっていることも見逃し得ない。

尖閣諸島に関する法と歴史

 尖閣諸島は、中台を除く世界諸国が認めるように、法的にも歴史的にも明々白々たる我が国固有の領土で、中台がこの領有を主張する権利はいささかもない。

 すなわち、明治政府が明治28(1890)年に他国の支配が及んでいないことを慎重に調査し、無主地先占の国際法理で領有化を図ったのであるが、中国を含め他国からの異議は全くなかった。

 同島は民間人に貸与され魚釣島に居住した島民は、羽毛・グアノの採集に従事し鰹節工場を営んだ。その後無人となったが米軍の管理占領時代は射爆場となり所有者に借料が支払われていた(今も政府が借り上げ年220万円を支払っている)。

 中国側も1970年までは日本領と認めていた。

 例えば、大正8(1919)年に中国漁船が同島付近で遭難し、島民に救助(31人)された折には、中国駐長崎領事だった馮冤は沖縄県八重山郡諸島和洋島(魚釣島のこと)の石垣村雇玉代勢孫伴や鰹節工場主古賀善次等に感謝状を送った。

 また、1950年北京市役所発行の世界地図帳でも国境は同島の外に引かれ、地名も日本名になっていた。

 1968年1月8日付の人民日報の記事でも琉球諸島が7つの諸島からなるとしてその1つに尖閣諸島を挙げている。ちなみに同島の現所有者はさいたま市在住の結婚式場を経営する民間の人物である。

 しかるに、1968年、ECAFE(国連極東経済機関)が同島海域に大量の石油埋蔵量があることを発表すると、中国は突然(1970年12月)、台湾(1970年夏)に続き領有権を主張し始めた。

 しかし国際紛争の裁判上重要なクリテカルデート上、今頃に至って中国の史書や古地図にある・琉球への冊封使が見たなどと言い立ててもいずれも領有の判断根拠には全くならない。