JBpressでHONZが紹介する『ルポ ニッポン絶望工場』(出井康博著)を読んだ。
出井氏は留学生を鵜飼の「鵜」のようなものと評している。言い得て妙であるが、鵜飼は日本人であり、鵜は日本に憧れ、大きな希望を持ってくる留学生や技能実習生などであるから、日本のイメージや名誉にかかわる問題でもあり、感心しているわけにはいかない。
日露戦争で勝利した日本は世界を瞠目させた。世界中から留学生がやって来て、帰国しては中心的存在として活躍し、日本の名を高からしめた。対照的に、いまの留学生や技能実習生にとっての日本が絶望工場では、恥ずかしい限りである。
日本は単独には生きていけない。地勢的にはアジア諸国の一国として生きていくように運命づけられている。そうした意味では、アジアの留学生や技能実習生たちを失望させることは、日本の安全や存続にもかかわる大きな問題である。
日本の勝利が与えた影響
日露戦争で日本が勝利するとみた国はほとんどなく、資金集めで日本は散々苦労した。超大国ロシアを相手に戦争する無鉄砲な国、気でも狂ったかと思われるのが精一杯であったのだ。
世界の大国であったトルコ帝国、そしてナポレオンのフランスさえ、ロシアに敗北した。決定的な要因はマローズと呼ばれる「暴風雪」であり、ロジーナとロシア人が愛を込めて語る「母なる大地」が味方したからである。
トルストイの『戦争と平和』でも、モスクワを指呼の間にしてフランス兵たちの士気はすこぶる高い。攻撃の号令がかかるのをいまかいまかと待っている。そこにナポレオンが下す命令は「準備せよ」である。意味を測り兼ねた伝令が確認すると、ナポレオンは「退却だ」と静かに応える。
実はロシアの指揮官もナポレオンに大打撃を与えていたが補給などは途絶え、進軍はできない状況に置かれていた。しかし、マローズとロジーナはロシアに味方した。
日本も203高地の攻撃では、深雪などに散々苦しめられる。乃木希典将軍は息子2人を戦死させる激戦であるが、大口径砲と「負けてはならじ」との敢闘精神を発揮して、勝利を引き寄せた。
また、戦争は政治の延長であるというクラウゼヴィッツの「戦争論」を理解して、深追いすることなく幕引きを行った。目的を明確に理解していた戦略の勝利であったとも言える。
「ロシア皇帝が日露戦争に負けたから、われわれは革命を成就できた」とレーニンが語っているように、ロシアの農奴を開放したのは日本と言うこともできる。
日露戦争における日本の勝利は世界を驚かすとともに、植民地にされて苦しんでいた国々に「独立」の気風と勇気を与えたと言える。当時、アジアで独立していた国は日本とタイしかなかった。他はどの国も西欧列強の植民地となって虐げられ、搾取され、苦しんでいた。
世界の虐げられていた諸民族の独立への夜明けとなり、人種平等や民族国家独立への道を歩ませる端緒となり、アジアの各国から後に国を背負って立つことになる留学生が大勢やってきた。
アジアの青年に希望と勇気
フランスに亡命していた孫文がスエズ運河を経由して中国に帰って来る。スエズ運河で荷物を運んでいるアラブ人が孫文の顔をみて、「お前は日本人か」と聞く。
「支那人だ、なぜか」と問い返すと、「いま、しきりに戦死者や負傷者が運ばれてくるが、日本海海戦が行われて、アジアの東の小さな日本という国がヨーロッパの大国ロシアに勝った、それが非常にうれしくて、日本人かと聞いたんだ」という。アラブ人の喜びが聞こえてきそうだ。
孫文も「日本がロシアに勝った。これはアジア民族のヨーロッパに対する勝利であり、アジアの諸民族は非常に喚起し、大きな希望を抱くに至った」と、アジアの独立運動や民族主義運動が盛んになるという演説を行う。
こうして孫文は近代中国建国の父と呼ばれることになる。日本への留学熱が一段と高まり、戦争翌年(1905年)の中国人留学生は1万2000人にもなる。この青年たちがのちに辛亥革命を実現することになる。