2016年8月、ウクライナの首都キエフに、OUN-UPA(ウクライナ民族主義者組織-ウクライナ蜂起軍)の指導者の名を冠したステパン・バンデラ通りが誕生した。
「ユーロ・マイダン革命」後、ウクライナでは非ロシアの一環として歴史の書き直しが進んでいる。
しかしながら過度のウクライナ民族主義の強調は、国内分裂の火種となるばかりでなく、隣国との係争問題に発展しかねない。ポーランドは、大戦期におけるバンデラの組織の行為を「ポーランド人に対する虐殺」認定し、不快感を露わにしている。
脱ロシア化に振れるウクライナ
周知のように、ウクライナは複雑な領土編成の歴史を持っており、それぞれの地域が独自の歴史的経験に基づくウクライナ民族観を維持してきた。
そのため、歴代ウクライナ政権は、国内分裂を招きかねない分野、例えば言語や宗教、そして歴史については国家による介入を避け曖昧な状態にしてきた。
独立直後こそウクライナ民族主義(本稿では便宜上、ガリツィア地方のウクライナ観に基づくものを指す)に振れたが、第2代ウクライナ大統領クチマ(1994-2004)の時代になると、バランスが図られていく。
彼の選挙公約「ロシア語の第2国家語化」はあっさり反故にされ、独立後に分派したウクライナ正教キエフ主教座からの国教化要求も無視されてきた。歴史問題についてもソ連時代の歴史解釈がほぼ踏襲されてきた。
こうした状況は、ユーシチェンコが2005年に大統領に就任すると変化し始める。その一例として、ソ連時代の農業集団化に伴う大飢饉を「ウクライナ民族に対する虐殺」と認定した議会決議を挙げることができる。
また、それまでウクライナ西部でのみ支持されてきたOUN-UPAsの復権も進められた。OUN-UPAは、今日のウクライナ西部において、ナチス、後にソ連の支配に対し武力抵抗運動を行ったことで知られている。
そのため、ソ連の公式歴史において、OUN-UPAは「テロリスト」あるいは初期にナチスと協力していたことから「ナチスの手先」とのレッテルを貼られてきた。
一方、ポーランドにおいてもOUN-UPAは蛇蝎のごとく嫌われてきた。OUN-UPAはナチス支配の後退期に将来の独立を見越して民族浄化を行ったからである。
特に1943年7月からの浄化作戦により、ヴォリン地方では数万人規模のポーランド市民が犠牲となったと言われている。
2010年にヤヌコヴィッチが大統領に就任すると反動が訪れる。反大飢饉キャンペーンやOUN-UPA復権はトーンダウンする。ヤヌコヴィッチ大統領はさらに、集票効果を狙ってロシア語の公用語化法案を議会で通す。
また、自身の犯歴を糊塗するためか、政権とウクライナ正教・モスクワ主教座との親密な関係がアピールされるようになった。