家庭を持つ働き盛りの男性が読むと、とても不安になってしまう小説である。

 みなさんは、定年退職後の自分をどのように思い浮かべているだろうか。「退職したらカミさんとゆっくり旅行にでも行って、夫婦水入らずの時間を過ごそう」なんて思っている人はいないだろうか。奥さんは「きっと喜ぶに違いない」と。

 だが、どうもそれは大きな勘違いのようなのだ。

 渡辺淳一氏の新作、『孤舟』の主人公は、大手広告代理店を定年退職した威一郎。会社では役員まで上りつめ、家庭の中では威厳のある夫、父親として君臨してきた。

孤舟』(渡辺淳一著、集英社、1680円、税込)

 それが定年退職したとたんに、妻との立場が逆転する。一気に見下され、邪魔者扱いされるようになるのだ。

 妻としては、もう稼いでこないのだから働いていた時のような大きな顔をしないでほしい、という気持ちである。おまけに一日中家の中で顔を突き合わせ、外出するたびに「今日はどこに行くんだ」「何時に帰って来るんだ」とからみついてくるから、うっとうしくて仕方がないというわけだ。

 定年退職後の威一郎に対する妻の態度は寒々しいものがある。「従順」だったはずの妻が、これほどまでに夫を虐げるようになるのだから恐ろしい。

 会社員時代の自尊心と傲慢さが抜けきれない威一郎の姿がなんとも痛々しく、未来の自分に思わず同情してしまう男性は多いだろう。

 ストーリーが大きく動き出すのは後半である。子供が独立して家を出ていき、妻も「これ以上一緒にいられない」と、威一郎を置いて出ていってしまう。残されたのは威一郎と犬のコタローだけ。

 孤独に耐えきれなくなった威一郎は意を決してデートクラブに電話をかける。「いきなりデートクラブはないだろう」と思われるかもしれないが、それも仕方がないかなと思えるほど、退職後の威一郎の毎日はやるせなくてみじめなのだ。