また、この季節がやって来る。

 1945年8月9日、ソ連が突如として日本に宣戦布告し、満州、樺太、千島列島などに攻め入ってから69年目の夏である。

ソ連の対日宣戦布告に合わせて攻め入ったモンゴル軍兵士

『1945年解放戦争の英雄たち』表紙

 同じ日、モンゴル人民共和国の兵士たちも、国境を越え、日本が支配する中国側へと攻め入っている。

 モンゴルでは「解放戦争」と呼ばれるこの戦争に参加したソ連・モンゴル連合部隊の人員は4万2000人。モンゴル兵士のみの数は残念ながら分からなかった。

 日本側でノモンハン事件、モンゴル側でハルハ河戦争と呼ばれた1939年の戦いに参加したモンゴル兵士の数は8775人(当時の全兵力の半数以上)であり、その後増加し、1945年7月には臨時に召集された兵士を含め総人員は4万1000人に上った。

 やはり半数を振り分けたとしても多く見積もってもこの数の5割に満たない程度である。実際はもっと少なかったであろう。

 この戦争、日本から見れば、ソ連が不可侵条約を破って始めた不正義な戦争であるが、この戦争に参加するモンゴル人たちから見れば別の形にこの戦いが見えていた。日本の支配下にあるモンゴル人同胞の解放である。

 『ロシア・モンゴル間の軍事協力(1911-1946)』(モスクワ・ウランウデ、2008)なる本によれば、ソ連・モンゴル連合軍の作戦準備の命令は6月28日に出されている。

 8月1日にはソ連から司令官としてプリエフ大将が派遣され、8月5日には、作戦に関わる部隊を国境近くで配置に就かせるよう指令されている。8月7日には国境への配備が完了し、8月9日0時(ザバイカル地域での時間、モスクワでは8月8日18時)に作戦開始との命令が伝えられた。

(公文書によれば、モンゴル人民共和国の戦線布告は8月10日である。もともとの作戦計画ではモンゴル軍のいる部隊は、ソ連の作戦開始2日後に行動開始となっていたために布告が遅れたようである)

 モンゴル人が多く参戦した地域は、満州国南部や蒙疆自治政府のあった地域である。2010年、この戦争から65年目を記念してウランバートルで出版された『1945年解放戦争の英雄たち』には、司令官や将校たちだけでなく、この戦いで数々の軍功を立てた人々や、戦いで倒れた人々の回想が寄せられている。