フクシマからの報告を続ける。今回は、2011年4月、村人約6200人が全村避難という悲劇に見舞われた福島県飯舘村の再訪記だ。今も村人の大半は村の外の仮設住宅や借り上げ住宅で避難生活を強いられている。

 私は、拙著『福島飯舘村の四季』(双葉社)で村の四季の自然を紹介してから、今も春夏秋冬の自然の美しさを写真で記録するために村を訪ねている。今春も5月初旬にサクラの咲く風景を撮影した。そのとき、伊藤延由さん(70)を再訪した。同書の中で取り上げた、村に残って空間や土壌・植物の放射線量を計測し「自分で自分を人体実験する」と話していた人だ。それから3年が経って、伊藤さんはどうしているのだろうか。村の自然はどうなったのだろうか。

汚染地で農業をするとどうなるのか

 車は細い山道をうねうねと登った。舗装路が尽きて砂利道になった。伊藤さんの「農場」は阿武隈山地の真ん中、標高628メートルの野手上山の山麓にある。行政区分では「小宮」と呼ばれる地区である。高濃度の汚染で地区が封鎖された「長泥」地区のすぐ北隣だ。今でも「居住制限区域」として「立ち入りはできるが、住んではいけない」ことになっている。高濃度の汚染地帯である(注:5月27日現在、小宮コミュニティセンター前のモニタリングポストの計測値は毎時1.79マイクロシーベルト。「福島民報」より)。

 「いいたてファーム」の看板がある門をくぐる。3年前に訪ねたログキャビンの入り口で伊藤さんが出迎えてくれた。しばらくでしたね、ご無沙汰失礼しました、と私たちは挨拶を交わした。

 「低線量被曝は体にいい、なんて言う学者もいたでしょう? なら、人体実験してやろうじゃないかと。もうトシもトシですしね」

 テーブルに座った伊藤さんはそう言って笑った。

 もともとは飯舘村の出身ではない。新潟で高校まで育った。ずっと東京でサラリーマン生活を送った。2009年、勤めていたソフトウエア会社の経営者から「研修施設の管理人にならないか」と誘われた。それが「いいたてファーム」だった。長年農業に憧れていたので、すぐにオーケーした。

 原発事故のちょうど1年前、2010年3月に開所した。社員だけではなく、心身にハンディのある子どもたちも合宿に来た。2ヘクタールの水田がある。農作業を体験し、山や渓流で遊んだ。合間に伊藤さんは畑や田んぼを耕した。玄関先に鹿がやって来る深山の懐に抱かれた暮らしは、伊藤さんには夢見た生活そのままだった。