「風景が自分を覚えている場所」

 石の建築物が並び立つウランバートルに初めて住むことになった1992年、ふと思ったことがある。日本の風景は刻々と移り変わる。ある年には家が1つ打ち壊されるかと思えば、次の年には新しくビルが建つ。20年も経てば、風景がずいぶん変わってしまう。

ヨーロッパ化されたモンゴルの都市

 学生の頃、何度か石造りのヨーロッパの街をあちこち歩いた。何世紀も昔の絵画に描かれる風景が今と変わらずそこにある街がずいぶんあった。恐らく20年、30年後に訪れても、自分の見た風景と変わらず存在するんだろうなと思い、少し羨ましく思うことがあった。

 モンゴル国は遊牧民がつくった国家である。その住居は移動を意識して簡単に組み立て解体が可能なゲルという建物で、内部もやはり移動を意識してか多くのものを持たず、非常に質素である。

 1990年代、現代のモンゴル人に関する何の情報も持たず、遊牧生活や大自然を期待してアジア方面からモンゴルに来た人は、その首都の中心部の堅固な石造りの建物に面食らい、その風景にアジアというよりヨーロッパを見たと言われる。

 私自身も同じモンゴルを学ぶ先輩や仲間から見せられたウランバートルの写真で慣れていたはずだったが、やはり石造りには圧倒されてしまった。そこで思い浮かんだのが、冒頭の言葉である。

 しかし、期待は見事に裏切られた。この18年間、特に2000年以降、都市風景は大きく変わっていった。今回はその風景の変化についてお話をしていきたい。

民主化後、変化が著しくなった街

地下倉庫を改造した形の店(モンゴルではなくロ シアの地方都市のもの(2005年10月))

 1992年、既に政府は一党独裁を放棄し、民主化の道を進み始めていた。黎明期の自由を求める政治的な季節はあっという間に終わり、経済的な繁栄を求め、多くの人が様々な「ビジネス」を試みるようになった。

 特に目立ったのが、前回も話した中国へ担ぎ屋として出かけていった人々である。彼らは実に様々なものをウランバートルに持ち帰ってきた。

 市場に持っていき、そこで売ることもできたが、ある程度の資本が蓄積されると、自分たちで小売店を出して売る人も出てきた。

 社会主義下において個人が商売できるよう賃貸されるスペースがあるわけでなく、ましてや新たに建物を造る資本もない。そんな彼らが目をつけたのは、既に建てられている建物のデッドスペース、主に荷物や資材置き場として使われていた地下室であった。

 余談だが、1995~97年に住んだイルクーツクでは、大学寮の地下室を倉庫代わりに使っていた。朝になれば、そこから“学生”たちが荷物を出して市場に売りに行き、残れば夜彼らが地下室に持って帰ってきていた。