平成25(2013)年12月26日安倍晋三総理大臣が靖国神社に参拝して明治以降の戦闘などにおいて日本のために尊い命を捧げられた英霊に祈りを捧げられた。

靖国神社参拝に関する安倍総理の英断

 特亜(特定アジア=ネット上で広がったスラング)がヒステリックに騒ぐことは当然予期されたことではあるが、それを意に介せず安倍総理大臣は粛々とお参りされた。日本国の総理大臣として当然のことである。

 小泉純一郎総理を除く歴代の総理が外交的配慮という腰の引けた対応で中曽根康弘総理の中断以降、参拝中止を続けてきたのに反し、参拝を決意された英断には心からの感謝と尊敬の念でいっぱいだ。

 また、米国も遺憾表明を出したとのことだが、自分たちが太平洋戦争中に行った蛮行、すなわち南方戦線での日本兵捕虜の扱いや日本の都市に対する無差別爆撃あるいは原爆投下をしておきながら、敗戦国日本には「平和に対する罪」と言う事後法ででっち上げた極東軍事裁判などを勘案するとA級戦犯の名誉回復は非常に都合が悪いことだろう。

 戦争を発起すること自体、人間社会に悲惨な殺戮・破壊を招くことであり、許されないことではある。しかし、彼我に認識の違いはあるにせよ、国家が死活の状態に追い込まれたと認識すれば自国防衛のために戦争を発動する交戦権は国際法上認められていることである。

 A級戦犯として絞首刑になった東条英機元首相以下日本の戦争指導者が、極東軍事裁判のため終戦後急いで作られた事後法に照らし合わせても、一体どこに該当者が戦犯と認定されなければならない事項があるのだろうか?

 戦勝国にとって彼らを戦犯に仕立て上げることは当時の認識として都合が良かったのであろうが、インドのパール判事が述べられているように、改めてことの真相を掘り下げると矛盾だらけでデッチ挙げの形式的裁判であったことが明らかになりつつある。

 それに引き替え、米国の戦争指導者が行った原爆投下や都市の絨毯爆撃は今次大戦にかかわらず、戦争犯罪即ち「平和に対する罪」と言うよりも「人道上許し難い重罪」ではないか。

 例えば広島と長崎に投下された原爆であるが、その投下地点が呉軍港や佐世保軍港だったとしたら、多くの一般民間人が巻き添えになったとしても、軍事施設の破壊という戦争目的の名目は立つ。

 しかし、その照準点を軍事目標とは絶対認定できない一般民衆が住む人口密集地点に合わせることを米国トップの命令として明確に発効しているのであって人類史上でも、極悪の犯罪であると私は思う。

 これは私が日本人だからというわけではなく、普通の人間なら人種・国籍に関係なくそう考えるのが妥当だと思う。

 マッカーサ元帥が戦後の日本占領統治を進めていくと、当初は野蛮な日本民族を完璧に再起不能にしようと推測される方針で臨んだが、開戦に至る日本の事情を理解するにつれ、その見解に変化が生じたと思われる。

 GHQ司令官を解任されたマッカーサ元帥が米国の議会で「大東亜戦争では日本が自衛のために立ち上がった」と証言したが、その一言を述べざるを得ないほど、当時の日本のリーダーが日本国および民族の生存が絶望的な状態に追い込まれ「窮鼠猫を咬む」的な恐怖心に駆られて米国という巨人に立ち向かう決心をしたと思われる。

 それが直前まで敵国として日本と戦火を交えた連合国軍最高司令官にさえ十分理解できたのである。

 ここでお断りしておくが、本論では、A級戦犯とされた日本の首脳が戦犯に該当する理由もなく極東裁判で極刑に処せられた理不尽さがあったという事実を述べたいのであって、戦勝国である当時の米国首脳や米国民に怨念や仇敵の気持ちを表明したいのではない。

 A級戦犯とされた方々の名誉と日本国の名誉ため、もう少し付け加えるならば、ナチス・ドイツの手から逃亡したユダヤ人約6000人をシベリヤ経由で救出したリトアニア・カウナス領事館駐在の外交官杉原千畝氏の話はあまりにも有名であり、その話に補足すべき事実を述べ、A級戦犯とされた方々の人間性の一端をこの案件を通じて述べたいのである。