黒川清・日本医療政策機構代表理事監修

1. 200年後の「蘭学事始(らんがくことはじめ)」

 83歳になった杉田玄白が、蘭学初期の苦心を回想し、『蘭学事始(らんがくことはじめ)』を綴ったのが1815年。ほぼ200年前のことである。その後、福沢諭吉らにより1869年に「再発見」され、今に至るまで版を重ねている。

 西洋への窓口と言えば、出島のオランダ商館であり、ヨーロッパ言語と言えばオランダ語であった時代から、歴史は流転し、日蘭関係も様々に変容してきた。それでも、医療の世界を見てみると、「メス」「ピンセット」といったオランダ語がいまだに息づいているように、その歴史の芳香をまだ感じることができそうだ。

 では、医療保険制度、医療政策はどうだろう。実は、この国から我々が学べることは、まだまだたくさんあり、「オランダに学ぼう」という風潮は近年特に高まっている。

 それはなぜか。

 「オランダ・モデル」が、常に最先端を行き、常に成功してきたからではない。その逆に、オランダは、低成長経済、高齢社会、慢性疾患の増加といった先進国の多くが共通に抱える課題に対して、ここ20年近く、試行錯誤し、国民的議論を重ね、少しずつ、一歩ずつ、妥協を重ねながらも改革を進めてきたからにほかならないように思える。

 本シリーズでは、計2回にわたり、オランダの医療保険制度改革の経緯と現状を追う。1回目の今回は、医療保険制度の概要を解説し、第2回目では、そのなかで特に日本に示唆するところがある高齢化対策と、医療ITの活用について紹介する。

2. 「オランダ病」からの脱却

 さて、オランダの社会保障制度が常に成功してきたわけではない、と述べた。19世紀の福祉国家の成立、そして第2次大戦以降、オランダは協調主義に基づく社会保障制度を作ってきたものの、1980年代に1つのつまずきを迎えることとなる。経済分野でよく言われるところの「オランダ病」の因果だ。簡単に振り返ってみよう。

 1960年代後半、オランダは目前の北海に眠る豊富な天然ガスの採掘に乗り出す。第1次石油危機を経て、この天然ガスは高騰し、思わぬ売却収入を得ることとなる。この原資をもとにオランダは手厚い社会保障制度を作り上げ、一気に福祉国家の色が高まった。

 ところが、貿易黒字の進行は、当時の通貨ギルダの高騰を呼びこみ、工業製品の競争力が急激に悪化。1980年代前半の失業率は14%に達し、充実し過ぎた社会保障制度がもたらす財政負担のみが残ることとなった。

 この「オランダ病」から脱却すべく、その後のオランダは、社会保障制度のみならず労働政策など様々な分野で、少しずつ改革を進めていくこととなった。社会保障制度改革においては、1987年に発表されたデッカー・プランと呼ばれる指針が柱となった。

 まずは、その結果としての「オランダ医療保険制度の今」を見てみたい。