特別養護老人ホームへの入居待機者は全国で四十数万人いると言われる。公的なホームは圧倒的に足りない。超高齢社会を迎えたいま、高齢者の子供もまた高齢化し、自ら働き続けなくてはならず在宅で親の介護をする余裕などない。まして身寄りがなければより状況は厳しい。

大きく映し出されたグロード氏(偲ぶ会で)

 仕方なくショートステイを繰り返したり、介護サービスを斡旋するワンルームマンションといった低所得の高齢者をターゲットにした民間の“あやしげな”住まいに頼らざるを得ない人もいる。

 公的なホームの不足を補うように介護付きの有料老人ホームが雨後の筍のように各地に見られるが、ここに入ることができるのはかなりの所得か資産のある人たちだ。

 また、こうしたホームはビジネスであり、時に経営難に陥り入居者の生活に影響が出ることもあり得る。加えて、ビジネスと福祉の合体であり、本来の高齢者福祉の考えが運営の基本にしっかり根付いているかといえば疑問なところもある。

 介護保険制度が始まって12年。在宅で寝たきりという悲惨な状況はかなり改善されてきたというが、超高齢社会になって多くの人が障害を持って“長い”老後を生きる可能性があるいま、普通の人が最後まで安心して、尊厳を持って暮らせるようなっているとはとても言えない。

 ではどうしたらいいのか。実行すべき具体的な施策はいろいろあるだろう。しかし、その前にもう一度、こうした施策を土台で支える「高齢者福祉とはどうあるべきか」という原点を問い直してみるべきではないか。

 それを痛感したのは、昨年末85歳で生涯を閉じたフランス人神父、フィリッポ・グロード氏の業績を振り返ったときだった。

 先日函館市内でグロード神父を偲ぶ会が開かれ、カトリック教会関係者や福祉関係者など約600人が詰めかけた。これを機に彼が函館の丘の上につくり上げた高齢者福祉施設を久しぶりに訪ねた。彼の足跡を振り返り、彼の思想とそれが形となったホームについて報告したい。

函館山と津軽海峡を望む丘から

 ホールのなかで学生たちのブラスバンドの音が鳴り響き、女子学生が「津軽海峡・冬景色」を熱唱する。お年寄りたちが静かに聴き入り、なかには小さく手拍子を打つ姿も見える。

 半透明の高い天井から柔らかな光が差し込む室内には、アンティークな街灯が立ち、壁面には人や動物をかたどった細工が施され、西洋風の絵画、塑像がアクセントを添える。観葉植物の緑が温かい空気と溶け合っている。