暗黒の街プノンペン。

 今から遡ること約12年前の2000年前後、カンボジアの首都プノンペンを訪れたことがある日本人の中には、この類の呼称で渡航・滞在に対する警戒を促された覚えがある方もいるのではないだろうか。

 この連載でカンボジア経済の現状を紹介してきたプノンペンの「今」は、約10年前に比べると、まさに文字通り隔世の感がある。

バックパッカーの危険な思い出も今は昔、治安が安定したプノンペン

プノンペン川沿いの飲茶カフェ「イーサン」。昔は荒れ果てていたプノンペン も環境整備が劇的に改善され、リバーサイドは今では市民の憩いの場(著者撮影、以下注記がないものは同様)

 1992年、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)がカンボジアでの実働を開始。事務総長を務めた明石康氏の活躍が、当時は連日のように日本のテレビ報道を賑わした。

 その監視下で1993年4月から6月まで行われた総選挙以降、1998年11月のカンボジア新政権発足に至るまでの約5年間、事実としてカンボジアは荒れに荒れた。

 主に敵対政党・勢力間の暗闘に端を発するクーデター未遂事件、要人誘拐・暗殺未遂事件。暗闘から実際の戦闘にまで及ぶに至った、諸州地方および首都プノンペン中心地における銃火を伴う軍事武力衝突。

 これらの多くは、当時の日本で全盛期を迎えていた時事報道型テレビ番組などを通じて、極めて刺激的なリアル映像とともに放映され、今も根強く残る“カンボジア=危険”のイメージを日本人の潜在意識に強く植え付けた。

 今、30代半ばとして社会生活を営む多くの日本人が、大学を卒業し社会人デビューを果たした時期と重なる1998年あたりまで、実際に首都のど真ん中で機銃や戦車によるドンパチが起こっていたプノンペン。

 新政権発足以降、多少の落ち着きは取り戻したにせよ、実質的な“内戦”直後の緊張・混乱状態であった市内には、銃器の類が氾濫し、治安も実際に極めて悪い状況にあった。

 折しも、1960年代あたりから欧米で流行し始め、航空券の低価格化など国際間移動コストの低下に伴い世界の若者の代表的な旅装、ひいてはライフスタイルの1つとして勃興した2000年初頭のバックパックブームと重なり、日本でも流行り始めていたバックパッカーとして当時プノンペンを訪れた日本人は意外に多い。

 その時の“実際に行ってみて肌で感じた”シャレにならない危険な空気と緊張感の生々しい記憶が、そこから干支(十二支)が1周して12年経った今でも、当時を語る渡航経験者の口や書き込みから発信され、それが実際の“今”とのイメージギャップを増幅させる。

 2000年以降、フンセン首相率いる人民党を実質与党とする連立政権により、銃器取り締まり規制の強化をはじめとした治安安定化が図られ、中国・韓国勢を筆頭に官民挙げての外国投資流入とそれに伴う環境整備も進み、プノンペンの治安環境は劇的に改善した。