JR尼崎駅から東海道線に沿って神戸方向に数分歩いたところに、日本で最もよく雷を知っている企業がある。音羽電機工業(兵庫県尼崎市)だ。日本でも数少ない雷対策の専門メーカーだ。

 同社が貫いてきたのは「雷と雷対策を極める。セラミックスを極める」ことだ。

 雷対策用品の設計・製造・販売のみならず、日本有数の雷に関する研究所を有し、雷ミュージアムも併設されている。雷ミュージアムには、フランクリンの凧から、世界の雷の写真、雷にまつわる世界中の神様、雷おこし(浅草名物のお菓子)に至るまで展示されている。

ラグビー精神で世界を飛び回った

 吉田修さんの父上、吉田亀太郎さんが音羽電機製作所を創業したのは1946(昭和21)年だ。爾来66年にわたって雷一筋でやってきた。

 主力商品である避雷器をはじめ、雷をあらゆる角度から研究し、有効な製品を商品化している。かなり長い間、電力、鉄道、通信など、大電力を使う分野が主たる顧客であったが、3代目社長である吉田修氏は「雷対策には無限のマーケットがある」との確信から、ターゲットを一般企業や一般家庭にまで広げて、雷対策のトータルソリューション企業として会社を育て上げてきた。いわば音羽電機「中興の祖」だ。

筆者(左)と吉田修社長(右)

 吉田修さんの学生時代はラグビー漬けだったという。甲南高校3年の時ラグビー部に入り、すっかりラグビーに魅せられた。その後、甲南大を卒業するまでラグビー一筋である。

 当時甲南大は関西大学Aリーグに所属する強豪チームの1つ。監督は明大ラグビー部出身で、明大の名物監督、北島忠治氏の流れを引く厳しい人だった。夏合宿ともなればみんなヘトヘト。50人ほどいる部員の中で常に20人以上が倒れているという状況だったらしい。

 吉田さんのポジションは14番=ウィング。あだ名は「バッタ」。俊足を武器にバッタのごとく敵陣を右に左にスワーブを切りながら縦横に駆け抜けて得点した。