「国民生活を守るため、再稼働すべきだというのが私の判断だ」と、野田首相は言った。6月8日の記者会見で国民に向けた言葉を聞き、非常に違和感を覚えた。このもっともらしい言葉は、よく考えれば乱暴でそして欺瞞的でもある。
かつて自民党政権時の首相たちが繰り返していたような表現だ。表向きはもっともらしいが真意は別にある。ただその真意、本音を言ってしまっては差し障りがあるので、誰がみても反論できないような言い方をする。
本音は、経済的な影響が大きいことを憂慮するからで、純粋に「国民生活を守る」ためではないだろう。
経済活動に影響が出て、政権の基盤が危うくなることを恐れるからではないのか。時の政権は当然、その時点での社会の安定を望み、自らの責任を問われかねない混乱を嫌う。首相の言葉には、この意図が透けて見える。
福島と大飯町で、守られる「国民生活」は同じか
経済活動への影響を憂慮することには異論はない。しかしそこに「国民生活を守る」という大義をつけるのは、安易に「国益」を持ち出すように違和感がある。
「国益」を安易に持ち出す人は、往々にして自分が望む将来の国家像に役立つものを国益という言葉に置き換える。真の国益は国民の利益であり、それは、国民が民主的なプロセスのなかの議論で決めることである。
「国民生活を守る」ことに誰だって異論はない。それは「人の命は地球より重い」というのと同じで、当たり前のことを言っているに過ぎないからである。しかし、「国民生活を守る」ために大飯原発を再稼働をするという理屈には無理がある。
国民生活、つまり国民の生活とは当たり前だが日本の国民の生活だ。関西だけでなく、東京でもでなく、福島県も東北地方もそうだし、沖縄も含めた日本全国のことだ。
いま、福島や東北の人が守ってほしい生活と、東京、そして関西の人が守ってほしい生活とは同じではないだろう。もっと細かく見れば原発立地の自治体と、大都会の人が守ってほしい生活にも違いがある。
原発があることで経済的に生活が成り立っている大飯町の多くの町民(国民)にとって生活を守るとは原発再稼働であり、原発事故によりふるさとを追われた被災者という国民の多くや、安全性が十分ではないと危惧する国民にとっては、生活を守るとは、再稼働を意味しないだろう。
再稼働に向けた対症療法的な理由を述べただけ
野田首相は、再稼働をしない場合、今夏の関西での電力は15%不足し、この数字は昨年の原発事故後の節電でも体験していない厳しいもであることを示した。
これが産業界に影響し、雇用の場が失われる可能性や、さらに突発的な停電によって病院などで命の危険にさらされる人がでてくるかもしれないという。
また、化石燃料への依存が増えて、電力価格が高騰すればぎりぎりの経営を行っている小売店や中小企業、家庭にも影響が及ぶといった。
石油資源の7割を中東に頼っていることを示し、オイルショックの危険性にも触れ、夏場だけの再稼働では危機を乗り切れないとし、エネルギーの安全保障という視点から原発は重要な電源であるとも訴えた。
一方、安全性については、福島を襲ったような地震、津波が起こっても、事故を防止できる対策と体制は整っていると説明。