4月下旬から2週間近くにわたる中国の盲目の人権活動家の陳光誠氏を巡る米中両国政府のせめぎ合いは、米中関係全体を大きく揺れ動かした。あっと思わせる逆転が続いた点では、ドラマチックでもあった。

 米国のオバマ政権の対中外交にとっては「不都合な真実」ともなり、痛い打撃を与えたとも言える。そして米中両国間の深い断層をも照らし出すこととなった。

 二転三転の激しいその展開からはいくつかの貴重な教示が浮かびあがる。

ワシントンの連邦議会で覆された陳氏の「宣言」

 現在40歳の陳光誠氏は中国の山東省の一地方に住み、独学で法律を学び、まったく1人で弁護士に近い法的活動を開始した。中国政府の一人っ子政策から生じる女性の堕胎の強制に強く反対し、当局への訴訟までを起こす構えをとるようになった。

 だが中国当局から弾圧され、懲役4年3カ月の刑を言い渡された。刑期を終えた後も自宅での軟禁処分を受けた。その軟禁がもう1年と7カ月ほども続いた4月23日、陳氏は山東省の自宅から闇をぬって、友人たちが運転する車で北京へと脱出した。

 そして4月28日には北京の米国大使館に避難したことが明らかになったのだ。これまで以上の迫害を避けるための脱出だった。

 陳氏は当面は米国大使館にとどまり、中国当局の弾圧をかわして、やがては米国への亡命や移住の機会をじっくりと待つのだろうと見られていた。米側では、この陳氏の活動に対する中国側の種々の抑圧を、官民で「重大な人権弾圧事件」と見て、注意を向けていた。

 ところが5月2日には陳氏は北京の米国大使館を出て、病院に向かった。中国にあくまでとどまり、法律の勉強を再開すると宣言したというのである。しかし陳氏のその「宣言」はすぐに覆されてしまった。

 私は5月3日、ワシントンの連邦議会でその逆転のドラマを目撃することとなった。なんと、北京の病院にいる陳氏から直接、議会の公聴会の場に電話がかかってきて、それまでの米中両国政府の合意を覆す宣言をしたのだった。

議場に流れた陳氏の肉声

 さて今回の事件の教示とはなんだったのだろうか。少なくとも5つの貴重な教示があったと言える。