前回は上海万博PRソングの「盗作」騒動と中国人の「面子(ミエンッ)」の関係についてお話しした。「パクリ」作曲家に大金を払った万博事務局の面子は潰れかけたが、岡本真夜さん側が「敬服すべき度量」を見せ、どうにか事務局は救われた。
簡単には一件落着しなかった上海万博PRソング盗作問題
これにて「一件落着」となるハズだった。
ところが話はそう簡単ではなかった。「盗作」騒動を引き起こした中国の作曲者である繆森氏側が、「岡本さん側は2つの曲が異なる曲であることを認めた」と発表したからだ。もちろん、岡本さんの事務所はこれを否定している。
「結局、面子とは関係ないんでしょ!」、図らずも自分の女房に言われてしまった。
「問題は収まるはずじゃなかったの?」
訝る妻に筆者は「やっぱり、これは面子の話なんだよ」と話を続けた。確かに万博事務局の面子は保たれたが、今度は作曲者個人の面子が立たなくなったからだ。
面子を潰された中国人は何をするか分からない。たとえ虚偽と分かっていても、平気で嘘をつける、いや、つかねばならないものらしい。
中国人にとって人間関係の基本は「相手の面子に対する相互の思いやり」だ。自分の面子を守ってくれる人は味方であり、潰そうとする奴は敵である。一般人ですらそうなのだから、政治家たちの「面子を巡る確執」はさぞかし熾烈に違いない。筆者もつい最近まではそう考えていた。
腐敗官僚・政治家に「面子」はない
ところが筆者が信頼するある中国人に言わせると、そもそも「中国の政治家には面子などない」のだそうだ。政治的野心を持てば、目的達成のため元手がいる。だから中国の政治家は人として保つべき「面子(プライド)」を忘れ、不正・汚職に奔走するのだという。
なるほど、言われてみればその通りだ。しかし、中国の政治家が皆そうだというわけではない。その中国人によれば、「政治家はレベルが上がるにつれて面子を取り戻し始める」「功なり名を上げた国家級指導者には、それなりの面子が備わってくる」のだそうだ。