福島県南相馬市は美しい街だ。太平洋の水平線から日が昇り、阿武隈山脈に沈んでいく。映画とかコンサートとか、きらびやかな都会型の娯楽とは縁遠い。が、そんなものは必要ない。懐深い自然がある。澄んだせせらぎで泳ぐ。緑深い山中でキャンプやバーベキューをする。川で海で、サケやヒラメを釣る。海と山は、7万人の南相馬の人々にとって「庭」であり「散歩道」であり「デートコース」だった。老いも若きも、誰に聞いても、その思い出には美しい自然がある。それは、人々にとって大切な宝物だった。

 しかし、2011年3月11日、そんな美しい故郷は突然終わってしまった。南に20キロ足らずのところに、福島第一原発があったのだ。

 そして今、南相馬市は「3.11でもっとも深い傷を負った街」の1つである。太平洋から内陸2キロまでの集落は津波で壊滅した。死者・行方不明者663人は福島全県の3分の1であり、県下最大の被害だ。さらに市域の南3分の1は、高線量の立入禁止ゾーン(警戒区域、原発から20キロラインの内側)にざっくりとえぐり取られ、無人の街になってしまった。

地図上の線を越えて流れていった「死の灰」

 南相馬市は、私が震災直後の4月に取材に入った街である。報道で、市域が20キロラインと30キロライン(屋内退避区域)に3分割されているのを見て、「これは大変なことになる」と直感した。

 「死の灰」(放射性物質を帯びたチリ)は、そんな地図上の線など越えて流れる。チェルノブイリ事故の本を1冊でも読めば書いてあることだ。案の定、福島第一原発から流れ出た死の灰は、そんな線などまったくお構いなしに風に乗って飛び、ライン外側の南相馬市にもどんどん広がっていた。そのさらに向こう、阿武隈山地の中に、後に高濃度の放射能汚染で全村民6000人が全員避難することになった飯舘村がある。

 12月3日、私は南相馬市を再訪した。福島第一原発が吐き出した放射性物質の雲(プルーム)が流れた下を歩いてみようと思った。そして、政府が原発事故後に取った対策がいかに愚かで、いかに深い傷跡をこの街に残したのか、この目で確かめようと思った。

 以前、「死の灰の発生源」である原発から20キロ圏の立入禁止ゾーンに入った報告を本欄に書いた。原発が吐き出した放射性物質が雪とともに降り注いだ飯舘村の訪問記も書いた。今回の訪問先である南相馬市は、その2つの間を埋めるピースと考えてもらえばいい。

20キロラインの外側なのに毎時4.64マイクロSv

 JR原町駅や市役所のある中心部から車で15分ほど南へ走った。原発のある方向である。西から東へ流れる太田川にぶつかる。この川がちょうど20キロライン(立入禁止ゾーン境界)に沿っている。川沿いに西へ。日産キューブは、阿武隈山地の山道を上がっていった。工事中のまま放置されている常磐自動車道をくぐったあたりから、田んぼの中を流れていた川が次第に渓流になる。