「冷戦後、日本人によって書かれた初の本格的インテリジェンス(諜報)小説の傑作」(佐藤優氏)と激賞されたデビュー作『ウルトラ・ダラー』から4年。待望の新作、姉妹編の誕生である。

スギハラ・ダラー
手嶋 龍一著、新潮社、1680円(税込)2月25日発売予定

 前作では、北朝鮮によるドル札偽造工作に大打撃を与えるという赫々たる戦果を挙げたにもかかわらず、そこに「重大な訓令違反」があったとして、任国日本での謹慎を言い渡されたイギリス秘密情報部員スティーブン・ブラッドレーは、北陸・金沢の蒔絵師のもとに弟子入りして無聊をかこつ日々を過ごしている。

 そんなある夜、金沢市内「ひがしの茶屋」で寛ぐ2人の人物のもとへそれぞれ緊急の連絡がもたらされる。2008年9月、世界金融市場を揺るがせたリーマン・ショックの第1報であった。

 連絡を受けた1人は、この日敦賀を経て、先ほど金沢に着いたばかりというシカゴ・マーカンタイル取引所のアンドレイ・フリスクと名乗る紳士。もう1人は、北浜の大阪証券取引所で「剛毅」と畏れられる相場師「松雷」こと松山雷児であった。

 金融市場の異変を知らされ、ともに一世一代の勝負の時を迎えた2人であったが、お互いが指呼の間に居合わせていることも知らず、アンドレイは「買い」、松雷は「売り」の対極の構えで、大荒れの相場に挑むのであった。

 だがこの2人、実は70年近く前に、神戸の地でその数奇な運命を交差させる瞬間があった。現代史の壮大なドラマは、こうして幕を開ける――。

手嶋龍一(てしま・りゅういち)
1949年、北海道生まれ。外交ジャーナリスト・作家。2001年9・11(米中枢同時テロ)事件をNHKワシントン支局長として、11日間、不眠不休で中継放送したことは記憶に新しい。また、普天間基地問題で浮上した日米同盟の軋みを80年代から予言していた『たそがれゆく日米同盟』、湾岸戦争をめぐる日本の国際的孤立を描いた『外交敗戦』等で、日本外交の視野狭窄がもたらす不利益について警鐘を鳴らし続けてきた。2006年、初の小説『ウルトラ・ダラー』(いずれも新潮文庫)を上梓、「日々のニュースがこの物語を追いかけている」と読書界に衝撃を与えた。

 それにしても、編集者として多少とも小説の誕生する舞台裏を見聞してきた評者からすると、この一作を書くために作者はどれほどの時間と労力、そして元手をつぎ込んだのかと驚嘆するばかりである。

 それくらいに破格の作品である。全体の構え、展開のスケールも格別ならば、物語の舞台もポーランド、上海、スコットランド、スリランカ、パリ、そして米国各地、国内では金沢、神戸、湯島、浅草、北海道等々を駆け巡る。

 一方、細部を彩る演出、描写は華麗な社交の場から裏社会の生態、グルメ、ファッション、旅、フライ・フィッシング、競馬とあらゆる事象にわたっている。

 しかも各ピースが丹念に選り分けられ、注意深く配置されて、全体が精緻なジグソーパズルのように仕立てられているのがこの小説である。

 主人公アンドレイはポーランドの古都クラコフに生まれた。だが、小学校に上がろうとした1939年9月、故国がナチス・ドイツに制圧されようとする直前にリトアニアへ逃れ、そこで在カナウス日本領事館領事代理だった杉原千畝が発給した日本の通過ビザ、いわゆる「命のビザ」を手にシベリア鉄道でウラジオストクへ渡る。そして敦賀を経由し、神戸へ辿り着いたポーランド系ユダヤ難民である。

 彼はそこで、無頼の孤児・松山雷児と出会い、束の間の友情を育む。やがて真珠湾攻撃まであと数カ月と迫った1941年3月、アメリカへとさらに旅立つアンドレイと雷児には別れの時が訪れるが、その時、雷児はアンドレイから大きな「使命」を託される。

 それは、やはりホロコーストの恐怖を逃れ、ポーランドから神戸に避難していたアンドレイの幼馴染みソフィーの守護神となることだった。再びヨーロッパの地へ戻りたいと願う両親とともに神戸を後にした彼女を追い、雷児は単身、魔都・上海へと旅立つ。