佐賀県玄海町の玄海原子力発電所をめぐっては、いち早く県知事が再開への姿勢を見せ、続いて町長も運転再開を了解したことで、「安全性への議論が尽くされたのか」などの批判がわき起こっている。これらに先立って行われた稚拙とも言える住民説明会の方法が批判されたばかりであり、事の重大さを理解していないと取られても仕方がない。
原発賛成派だけを集めた県民代表
6月26日、説明する国側がたった7人を県民代表として選び、この人たちとのやりとりを地元ケーブルテレビで放映するという方法を取った。これだけでも安易で不十分と言えるが、さらにこの7人の人選を広告代理店に依頼したことで、「原発再開の賛成派を集めてシナリオを作った」と批判されている。
子孫に影響を残す取り返しのつかない放射能汚染を引き起こす可能性もある原子力発電所というものの安全性やその存在そのものの是非が国中で問われている中で、「全く教訓が生きていない」という声が聞こえてきそうだ。
これまで各地の原発建設のプロセスが、建設的な批判を排除し「初めに建設ありき」で進められてきた。玄海原発をめぐるこうした推進のための戦術は、前回このコラムで紹介した、中部電力浜岡原子力発電所(静岡県御前崎市)の建設に関して30年前に行われてきた形ばかりの住民参加の方法と変わりない。
夏場の電力需要の増加や今後の産業界に与える影響を危惧するという理屈のもとに原発の安易な再開を後押しする声が高まっているが、いまなお続く余震を含めて大地震の到来への心配があることを考えれば、原発再開についてここは一つ慎重にならなくてはならない。
原発再開による危険性と、節電によって真夏に熱中症で亡くなる人が出ることの危険性を秤にかけたら後者の方がよっぽど高い、などと説き、原発推進を擁護する意見がある。もっともらしい意見だが、このロジックは熱中症になる人への心配から出たものではなく、原発推進のために発想された理屈だということは想像がつく。
熱中症の増加で原発再開の世論づくりの危険
大事なのは、目の前のことと将来のことを併せて考え、電力需要を抑えても、人々が熱中症などの被害に遭わない施策や慣習を社会的に広めていくことである。この点を見誤ってはいけないだろう。
少なくとも原発に関しては、その危険性を原点に還って検証し、建設プロセスにおいて事実に基づいた議論が不十分であることを見ておく必要がある。それなくしては、一般の人には情報が十分開示されない中で、今後も健全な批判の芽が摘まれてしまいかねない。
ここでもう一度、近い将来発生がかなりの確率で予想される東海地震との関係で、いま最も注目される浜岡原発の過去の建設プロセスを例に取って、情報操作への監視と情報開示の必要性を考えてみたい。
前回、このコラムでは1982年に出版された“隠れた名著”『原発の町から』(森薫樹著、田畑書店)をご紹介したが、今回は、そこで取り上げられている耐震問題をめぐる1980年前後の議論に触れたい。