安徽省合肥 三国新城遺址公園 写真/beibaoke / PIXTA(ピクスタ)
約1800年前、約100年にわたる三国の戦いを記録した歴史書「三国志」。そこに登場する曹操、劉備、孫権らリーダー、諸葛孔明ら智謀の軍師や勇将たちの行動は、現代を生きる私たちにもさまざまなヒントをもたらしてくれます。ビジネスはもちろん、人間関係やアフターコロナを生き抜く力を、最高の人間学「三国志」から学んでみませんか?
赤壁だけではない、魏と呉が激しく激突したもう1つの大戦場「合肥」
三国志において、規模の大きな戦争といえば、魏と呉が対決した赤壁の戦い(208年)がまず思い浮かびます。しかし、魏と呉はその後、もう1つの場所で激しい戦闘を繰り広げました。それが合肥であり、のちの合肥新城を巡る一連の戦いです。
合肥は、巣湖という湖の北岸にあり、曹操軍にとって南方の最前線、呉の孫権にとっては北方に進出するために、避けて通ることができない場所にありました。
三国志時代に、合肥では6度もの戦闘があり、魏と呉が国防と侵攻でしのぎを削る場所となりました。最初の戦いは、208年に赤壁の戦いで曹操軍に呉軍と劉備の連合軍が勝利した直後です。敗走する曹操を追撃するために孫権と周瑜の呉軍は北上を試み、その際に合肥城を囲む包囲戦を行っています。
結果として、呉にとって合肥はまるで呪いのような敵の拠点となりました。孫権が右腕と頼りにしていた周瑜は、孫権が合肥を攻略中に江陵の戦いで矢傷を受けてのちに死去。孫権の北上への野望はことごとく合肥で潰れたといってよいほど、呉軍と孫権を躓かせる場所となったのです。






