諸葛亮と劉備の像 ピン・リン, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons

 約1800年前、約100年にわたる三国の戦いを記録した歴史書「三国志」。そこに登場する曹操、劉備、孫権らリーダー、諸葛孔明ら智謀の軍師や勇将たちの行動は、現代を生きる私たちにもさまざまなヒントをもたらしてくれます。ビジネスはもちろん、人間関係やアフターコロナを生き抜く力を、最高の人間学「三国志」から学んでみませんか?

劉備の遺志を継ぎ、魏の討伐を目指した諸葛亮

 劉備と蜀軍は、219年に劉備が漢中王になるまでの数年間、破竹の勢いで勢力を拡大しました。重要拠点の荊州では勇猛な武将として天下に名を響かせていた関羽が陣取り、219年の夏の時点では、軍師の諸葛亮が思い描いた「天下三分の計」の足掛かりが完成しつつあったのです。

 一見、素晴らしい勝利の連続でまさにこれからと思われた劉備軍団と蜀軍でしたが、過去数年間の戦勝の多くを支えた人材である軍師の法正、武将の黄忠が相次いで死去していたことで、219年には過去数年の勝利を生み出した原動力となる人材がいなくなっていました。

 しかしその219年、劉備が漢中王に即位したのちに、関羽が対魏の軍事侵攻を開始。当初は快進撃を続け、魏の龐徳や于禁を破るも最後は呉の裏切りによって敗死。蜀は荊州という重要拠点を失い、関羽という宿将まで死去するという大惨敗を喫します。

 関羽の死と荊州の陥落に追い打ちをかけたのが、劉備が起こした夷陵の戦い(221年)の大敗です。義兄弟とも言える親密な関係だった関羽の弔い合戦として意気込んだ一戦でしたが、呉の陸遜の計略により、参戦した蜀の武将の半数以上が戦死か降伏という惨事となります。

 この夷陵の戦いでは、蜀軍側に荊州出身の武将が多くいました。荊州は関羽の敗死で失われた領地であり、自身の出身地を呉から取り返そうと意気込んだ武将たちが、あえなく討ち死していった悲惨な戦いでもあったのです。