
写真提供:京セラ
20代で京セラを創業、50代で第二電電企画(現KDDI)を設立して通信自由化へ挑戦し、80歳を目前に日本航空の再生に挑んだ稲盛和夫氏。いくつもの企業を劇的に成長・変革し続けてきたイメージのある稲盛氏だが、京セラで長らく稲盛氏のスタッフを務めた鹿児島大学稲盛アカデミー特任教授の粕谷昌志氏は、「大変革」を必要としないことこそが稲盛経営の真髄だという。本連載では粕谷氏が、京セラの転機となる数々のエピソードとともに稲盛流の「経営」と「変革」について解説する。
1970年代後半以降、稲盛の下には企業からの救済要請が舞い込むようになる。現在盛んに行われているM&A(合併・買収)とは全く性質の異なる、稲盛流の企業再建方法とは。
救済要請が舞い込む

1980年代前半、稲盛和夫は二つの企業をグループに迎え入れ、機器事業への進出を果たした。同時に、もはや事業領域がファインセラミック分野にとどまらないことから、社名を京都セラミックから京セラに変更し、現在に至る企業の基本構造を完成させた。
この企業合併は、昨今のM&A(合併・買収)事情とは異なるものであった。物色することなく懇請を受けて始まり、打算からではなく救済の思いから進められた。経営において、利他的な取り組みが果たして成立するのか。合併や買収によって事業を拡大していくこと、その考え方と実際について、稲盛独自の道のりをたどりたい。
1970年代、京セラは「飛び石」を打つことなく、自社の技術の延長線上で多角化を果たした。結果、ファインセラミック技術を核として、多様な分野に展開する企業体となった。1979年3月期には、売上594億円、税引前利益149億円、従業員数3700名を数えるまでに成長するとともに、成長性、収益性が際立っていることから、注目が集まりつつあった。