写真フィルムの国産化を目指し1934年に設立された富士フイルム(当時: 富士写真フイルム)。同社の設立は、世界最大のフィルムメーカー、米コダック社との「因縁の70年」の幕開けでもあった。
社史研究家の村橋勝子氏が小説顔負けの面白さに満ちた社史を「意外性」の観点から紹介する本連載。第10回は富士フイルムを取り上げる。
フィルムの国産化は社会的責務
富士フイルムは、1934(昭和9)年1月、映画用フィルムの国産化を主たる使命として創立されたが、その前身は、第一次世界大戦終結後の1919(大正8)年9月、セルロイド8社が合併して大阪府堺市に設立された「大日本セルロイド」(現・ダイセル化学工業)である。映画用フィルム国産化の企図は、さらにそれ以前、十数年に及ぶ研究時代をさかのぼる。
「セルロイド」は、人類が開発した最初のプラスチックで、加工しやすく、着色性にも優れるため、1930年代~50年代頃には、おもちゃ、文房具、家庭用品などに広く使われた。大日本セルロイドは、発足後間もなく、わが国最大、世界でも有数のセルロイドメーカーに成長した。社長の森田茂吉は、さらなる発展のためには、セルロイドの新たな需要先の開拓が必須と考え、その最も有望な需要先として「フィルムの事業化」をターゲットにした。
当時わが国において、フィルム製造は研究すら皆無に近い全く未開発の分野だったが、同じ化学工業のセルロイドの製造技術がすでに世界的水準にあったことから、その応用であるフィルムも国産化できるはずと、森田は踏んだのである。しかも、外国から材料を購入して加工、製品化するのではなく、フィルムベースの製造から、感光剤の製造、塗布、そして加工まで、写真フィルムの一貫メーカーへのチャレンジであった。