2001年3月6日、日経・IMDニューヨーク経営セミナーで講演する稲盛和夫(ニューヨーク・メトロポリタンクラブ)
写真提供:京セラ(以下同)

 20代で京セラを創業、50代で第二電電企画(現KDDI)を設立して通信自由化へ挑戦し、80歳を目前に日本航空の再生に挑んだ稲盛和夫氏。いくつもの企業を劇的に成長・変革し続けてきたイメージのある稲盛氏だが、京セラで長らく稲盛氏のスタッフを務めた鹿児島大学稲盛アカデミー客員教授の粕谷昌志氏は、「大変革」を必要としないことこそが稲盛経営の真髄だという。本連載では粕谷氏が、京セラの転機となる数々のエピソードとともに稲盛流の「経営」と「変革」について解説する。

 第7回は、京セラの「グローバル経営」の原点に迫る。1969年、後の「シリコンバレー」に設立された米国現地法人が味わった艱難辛苦(かんなんしんく)と逆境突破のストーリーとは?

創業3年目の零細企業が背伸びをして海外進出へ

 稲盛和夫は、創業間もない零細企業の頃から販路を海外に求めた。また、日本のメーカーとしては飛び切り早く海外生産を開始した。日米間の貿易摩擦で懸案となり、多くの日本の大企業がやむなく海外進出を果たす、そのずっと以前から米国での経営に取り組み、艱難辛苦(かんなんしんく)の末にインターナショナルな経営の理想を実現した。

 ここに稲盛経営の本質が浮き彫りになる。それは、経済変動や市況など外部要因に翻弄された受動的な経営ではなく、自社技術の可能性を最大限に追求し、顧客至上主義に徹底して努める能動的な経営を、海外においても推進したことだ。最も大切なのは、国境や時代を越えて普遍的に通じる真のグローバル経営を実現したことであろう。これこそが、稲盛の「変革」である。

 順調に業績を拡大していた京セラは、創業3年目の1962年6月、早くも販路を海外に求め、中堅商社と海外代理店契約を締結し、海外市場開拓に本格的に乗り出した。

 翌7月には早速、稲盛が米国に初めての海外出張をした。京セラの製品や技術の認知拡大はもちろんのこと、米国ファインセラミックメーカーの技術レベルの確認が目的であった。米国の競合大企業の製造設備は自社に比べ、はるかに近代的で立派であったが、製品を見る限り、彼我に技術的な差はないと稲盛は出張の感想を述べている。

 しかし、具体的な商談にはなかなか結びつかなかった。