1974年に国内1号店を出店したセブン-イレブンは、2000年度にチェーン全店売上高が2兆466億円になり、それまで首位だった総合スーパーのダイエーを抜き、国内売上第1位のチェーンになった。そこからセブン-イレブンはさらに成長を続け、2022年度のチェーン全店売上高は5兆1487億円。単独チェーンでは日本で一番の売上を誇っている。この原動力となったのが立地の変革だ。ファミリーマート、ローソンも含め、日本のコンビニ業界は店舗を出店するための新たな立地開拓をし続けることで、成長を続けてきた。
小売業の歴史は生活者に近づく、変化対応の歴史でもある。
セブン-イレブンが長らく使ってきた「開いててよかった」というキャッチフレーズはまさしく、これを表したものだ。「午前7時の開店、午後11時の閉店」を24時間営業に変えたのも夜間に買い物をしたい人たちにその場を提供する、「生活者の活動時間に近づく」ものだった。
そのセブン-イレブンは2010年にチェーンのキャッチフレーズを「近くて便利」に改めた。近隣の店舗で買い物や用事が済む「距離的な近さ」や「時間的な便利さ」だけでなく、その店舗の存在自体が安心をもたらす「心理的な近さ」を込めたのが、このキャッチフレーズだった。
人口が減少する中、日本では中小小売店が店を閉じ、行政の窓口や銀行、交番なども閉鎖が相次いでいる。こうした生活に必要な各種サービスを行う代替拠点となるべく、日本のコンビニは店内にあるATMでお金を下ろせるようにしたり、マルチコピー機で住民票の写しがとれたりする進化をしてきた。また、自然災害が増加傾向にある中、被災地域でいち早く商品をそろえ、地域の被災者を支えるのもコンビニになっている。
百貨店から総合スーパー、コンビニへと変わる小売業の王様
戦前戦後、日本では長らく「小売業の王様」は百貨店であった。百貨店は大都市から地方都市まで街の中心部に店舗を構え、経済成長とともにその数を増やしていった。「普段の買物は近隣の商店街、少しお洒落な洋服や新築の自宅に必要な家具、贈答用の菓子や果物は百貨店で買う」という「生活者の需要に近づいていった」。
それが変わるのが1970年代。ダイエーやイトーヨーカドー、西友など、衣食住の商品をそろえた総合スーパーが郊外の駅前や住宅地に出店し、広範囲から多くのお客を集めることで経営を成り立たせてきた百貨店を脅かす存在に成長していく。
筆者が育った札幌市郊外の琴似地区にも1977年4月にダイエー琴似店、同年6月にイトーヨーカドー琴似店がオープンした。当時の業界メディアが「琴似戦争」とあおり立てたように北海道の覇権争いをしていたダイエーとイトーヨーカドーがわずか600mの距離で互いの販売力を競い合ったが、この影響を受けたのが、街の中心部(大通公園周辺)に店を構えていた三越と丸井今井(地元百貨店)。その後、西友も含めた総合スーパーが街の中心部から放射線状に店舗を増やしていく中で、三越と丸井今井はお客を奪われていった。
1972年、ダイエーが売上高で三越を抜いたことが大きなニュースとなったが、この背景には札幌で起こったようなことが全国各地に広がっていたことがある。「生活者の住まいに近づいた」総合スーパーが小売業売上高ランキングで上位を占めるようになった。
その総合スーパーよりも、さらに生活者に近づいたのがコンビニだ。ちょうどこのころ、ファミリーマート狭山店(埼玉県、1973年9月)、セブン-イレブン豊洲店(東京都、1974年5月)、ローソン桜塚店(大阪府、1975年6月)と現在の大手3チェーンの1号店がオープンしている。
初期のコンビニは、零細な食料品小売業を業態転換したものだったことは、この連載の第1回で紹介したが(当時は酒屋、米屋、パン屋などの零細な食料品店が70万店あった)、その立地は商店街や住宅地の中でも人が集まりやすい、より生活者に近づいた場所にあった。
当時、零細な食品小売業の多くは総合スーパーや食品スーパーの安売りに対抗できず、厳しい経営状態にあったが、生活者に近い場所にあるという強みを生かし、大きな成長を遂げていく。
そして、コンビニはその追い風に乗り、新たな出店立地の開拓に挑む。モータリゼーションや都市化の進展といった変化に合わせて、駐車場を広く構えた街道沿いや、都市中心部、オフィス街や繁華街などへと出店する立地を広げていった。