小学校中退

 明治7年(1874)、ついに佐川にも小学校ができると、名教館は廃校となった。

 富太郎も小学校に入学したが、2年で自主退学してしまう。

 ドラマでも描かれたように、名教館で高度な教育を受けてきた富太郎には、小学校での授業内容は、物足りなかったのだ。

 以後、富太郎は正式な学校教育を受けることはなく、彼の学歴は「小学校中退」となった。

 短い小学校での生活のなかで、富太郎が夢中になったのが、「博物図」である。

 博物図はポスターのような大判の絵図や表で、動物5図、植物5図、合計10図から成り、明治6年(1873)、文部省が刊行した。

 富太郎の小学校には植物の1~4図までが来たようで、富太郎は大変に喜び、この図から植物の基本的なことを学んだ。

 ドラマでも、万太郞が熱心に書き写していた。

 博物図を作ったのは、植物学者の小野職愨(もとよし)と、博物学者の田中芳男である。

 小野は田辺誠一演じる野田基善のモデル、田中はいとうせいこう演じる里中芳生のモデルと思われる。

 のちに富太郎は二人に会い、やがて彼らの著書を改訂するのだが、博物図で学んでいたころの富太郎に、そこまでの未来は想像つかなかっただろう。

 

小学校の教師に

 小学校を中退した富太郎は、明治10年(1877)年頃、意外な依頼を受ける。小学校の先生になってくれと、頼まれたのだ。

 ドラマでは即座に断わり、万太郞が教壇に立つことはなかった。

 だが、富太郎はこの依頼を承諾し、授業生(臨時教員)として、自身が中退した小学校で、教鞭をとったのだ。月給は3円だったという。

 しかし、明治12年(1879)、2年ほどで小学校を辞し、再び学問をするために高知(高知市)に出た。富太郎、17歳の年である。