科学としての植物学を教えられる
富太郎は高知で、「五松学舎」いう私塾に入った。
ところが、入塾したものの講義はあまり聴かず、植物や地理、天文を読んで勉強し、詩吟も嗜んだという。
高知では、高知中学校教諭の永沼小一郎と懇意になった。永沼は英語が堪能な博学の士で、特に植物学に詳しかった。
富太郎は永沼から、科学としての植物学を教えられた。
自分の植物学の知識は、永沼に負うところが極めて大きいと、富太郎は自叙伝で述べている。
やがて、高知でコレラが大流行したため、富太郎は慌てて佐川に戻った。
東京へ
帰郷した富太郎は、独学で植物の研究に打ち込んだ。
そうするうちに、もっとたくさんの専門書や顕微鏡が欲しくなり、それらを購入するために東京旅行を思いついた。
ちょうど東京上野公園では、第二回内国勧業博覧会が開催されており、その見物も兼ねて、明治14年(1881)4月、富太郎は上京する。
富太郎、19歳のときのことである。
東京ではどんな出会いが待っているのだろうか。