将来、2014年という年を回顧することがあれば、それはウクライナ紛争の年と年表には太字で書かれることになるのだろう。

ソチ五輪中に発生したウクライナ内紛

ウクライナ国会前に極右数百人、幹部「射殺」で内相辞任を要求

キエフの国会前に集まり抗議活動をする右派の民衆〔AFPBB News

 ウクライナとクリミア、この2つの土地の組み合わせは8年間の準備期間と5兆円というオリンピック史上最大の投資額により、本来ならロシア史でも大イベントとして大きく取り扱われるはずであったソチ五輪を軽々と吹き飛ばしてしまった。

 たった1年ほど前に始まったこの紛争が、21世紀の世界に与えた影響、なかんずくBRICs(ブラジル、ロシア、インド、中国)の一角にあって、ソチオリンピックの実現でそのピークを迎えようとしていた新興ロシアから多くの可能性を奪ってしまった悔しさは、一外国人である私にもはっきり感じることができる。 

 筆者はモスクワでこの紛争を肌身に感じながら、ロシアと外界世界とがボタンをかけ違えてしまった状態、ロシアが必要以上に西側世界から敵視されるに至る状態に違和感を持ち続けている。

 筆者の視点は、日本の方々からはロシア寄りと批判されるだろうが、本稿ではウクライナ紛争の1年間を、ソチオリンピックも絡ませながら、あえてロシアに寄り添う形で概観してみたい。

 ウクライナの首都キエフで2013年11月から始まったビクトル・ヤヌコビッチ政権への市民の反対運動は、ソチ五輪でアルペンスキー競技がハイライトを迎えた2014年2月18日、死者82人を出す一連の銃撃戦にまでエスカレートした。

 ただ、この時期では、報道されるユーロマイダン(キエフの中心部にある広場、大規模な反政府集会を指す)運動は、親露政策をとるヤヌコビッチ政権へのウクライナ市民による反政府運動であって、そこに米国、ロシアの代理戦争という評価はまだ一般的ではなかった。

 現実にウクライナはソチオリンピックに選手団を送り込んでいて、アルペンスキー競技に出場予定であったボグダナ・マツォツカ選手の参加ボイコットが話題になったものの、それはヤヌコビッチ政権への抗議のためであって、主催国ロシアへの非難という意味ではなかった。

 ロシアのウラジーミル・プーチン大統領は、自身が先頭に立った招致運動では英語まで使って勝ち取ったソチオリンピックを成功させるため、競技期間中はモスクワとソチの間を頻繁に往復した。

 放送のため現地に滞在した日本のテレビ局スタッフが、こんなに大統領の姿が身近で頻繁に見られるとは思いもしなかった、という感想を述べているほど会場に足を運んだ。