前回は文革に関する中国の公式見解について考察した。今回は文革において庶民が果たした役割について論じたい。(文中敬称略、前回の記事はこちら

3、庶民が参加した文革

 文革の影の主役が一般庶民だったとすれば、彼らが文革期にいかなる対応をしたかを検証する必要がある。限られた資料から当時の一般庶民の考え方をいくつかの類型に分けて類推してみたい。

(1) 文革を信じた人々(純粋派)

証言:確かに文革期文学には江青らの権力闘争の道具に過ぎなかったとする「陰謀文芸」の要素が多大にあったとはいえ、多くの若者がその作品の中に彼らが真剣に夢見た「新しい人間、新しい世界」を描き出したこともまた事実です(青色部分は筆者が附した、以下同じ)。

 彼らの夢見たユートピアとは一体どのような世界だったのでしょうか。そしてその世界は現実の中国社会といかなる関係にあったのでしょうか。こうした問いかけは、文革後の文革に対する全面否定の中で、現在に至るまでいまだに発せられていません。*1

 前回の冒頭に紹介した中国政府の公式評価では、文革は革命運動ではないとされ、あたかもそのすべてが否定されているように読める。しかし、本当にそうだろうか。

 毛沢東は己の信ずる「社会主義」実現のため、腐敗し停滞した中国の伝統社会を徹底的に変えようと望んだのではなかったのか。そして、当時の中国社会に不満を抱いていた非常に多くの若者が、最高権力者の言葉を信じ、その支持を得て、紅衛兵として純粋に社会改造を目指したのではないか。

 そうだとすれば、文革によって実際に中国の伝統社会は変わったのか、変わったとすればどう変わったのか、その結果、現在何が起きているのか、という点も議論されるべきである。

 さらに、「純粋な紅衛兵が打倒しようとした中国伝統社会の「負の部分」は全く変わらなかった、それどころか、さらに悪くなった」といった問題提起にも答える必要があろう。しかし、今の中国ではこのような「文革の今日的意義」に関する議論はあまり聞いたことがない。

(イ)元祖純粋派

証言:我々は相手が誰であろうと容赦はしなかった。・・・私はその場における任務を遂行することに関心を持っていただけである。黒七類分子を反革命分子、階級の敵とみなしていたとはいえ、個々の人間としての彼らに対しては、個人的には何の憎悪も感じていなかった*2

証言:こうした大衆運動の進展の中で、人々はそれぞれの出身階級を「紅五類」(労、農、解放軍、革命幹部、革命烈士家庭の出身者)と「黒五類」(地主、富農、反革命分子、悪質分子、右派家庭の出身者)に分ける考えにとりつかれる。

 ある時、紅衛兵の集会で読み上げられた電文を、短髪の颯爽とした女性がマイクを奪い取って、革命輸出主義に過ぎると批判した。すると、紅衛兵は彼女の出身を詰問した。彼女は答える。「農奴です」。梁は思った。「農―奴―だと!『農奴』ほど人々を粛然たらしめる出身があるだろうか。・・・この上なく高貴な出身だ」。*3

 文革初期の主役だった紅衛兵運動は、1966年5月29日未明、密かに北京の円明園に集まった清華大学付属中学校の学生により始まった。当時の紅衛兵は大部分は共産党幹部のエリート子弟だったようだが、その後造反運動が拡大するにつれて、こうした「元祖」紅衛兵の一部は次第に批判の対象になっていく。

 彼らの親が「修正主義反革命分子」として批判され始めたからだ。その頃から、造反派は拡大を始め、当初の「純粋な」エリート紅衛兵とは異なる、多くの雑多な紅衛兵が生まれていくようになる。

(ロ)後発純粋派

証言:「造反」とは、当時劉少奇、鄧小平らが遂行したとされる、「修正主義」の教育方針への反逆であり、「修正主義の毒害から、我々のような革命の第二代を救い出すための行動だ」と、我々は無邪気に信じていた。・・・下放の当時、・・・誰もが偉大なる指導者毛沢東の言葉を信じて疑わなかった*4

*1=二つの文革(九州大学大学院比較社会文化学部 溝口喜郎)(mizoro28@guitar.ocn.ne.jp)
*2=「紅衛兵だった私」G.ベネット、R.モンタペルト、山田?平訳、日中出版 p106
*3=「ある紅衛兵の告白」(上・下)梁暁声(こぺる刊行会『こぺる』27号、1995年6月)の灘本昌久の書評
*4=「六九届」中卒生――僕の中学時代 姜克實 岡山大学教授のHP