ニッケイ新聞 2013年12月21日

 食道がんを患って入院したベット上で、元戦後移民の頭をよぎったのは、山本勝造夫妻(サドキン電球工業創立者)の優しい笑顔だった――現在は神奈川県横浜市在住で、60年代に移住して聖市で暮らしていた北島績(いさお)さんが、本紙を通じてサンパウロ日伯援護協会(菊地義治会長)など日系福祉4団体に1千万円(22万1千レアル相当)の寄付を行った。

後列左から谷口ジョゼ理事長(こどものその)、吉岡黎明会長(憩の園)、菊地義治会長(援協)、上村ジャイロ理事長(希望の家)。前列中央が高木ラウル本紙社長

 闘病中で来伯は叶わなかったものの、代表して寄付金を受け取った菊地会長は「人の恩を忘れない、素晴らしい人間性が窺える。きっと良い人生を送ってきたのだと思う。今は少なくなってしまった日本人の美徳を持っている」と話し、北島さんに謝意を示した。

 がんが末期に達し病床に伏す中で、北島さんは若かりし日を過ごした聖市の日系社会と、「一方ならぬお世話をいただいた」というサドキン電球工業の山本勝造社長(故人、元兵庫県人会長)の姿がしきりに脳裏に浮かぶようになった。

 本紙に届いた依頼メール(11月22日付け)には「ご夫婦とも故人となられ、報恩の手段を見つけることができません。そこで日系の福祉を担う機関へ寄付をすることとしました」(北島さんのコメントは全てメール原文ママ)とその思いが綴られている。

 北島さんは1960年代初頭に来伯し、サドキン社に入社し、通算12年間を当地で過ごした。山本社長からは「同社を退社後、転々と職を変えるうちに病を得て(失明状態)困窮していた時、手を差し伸べて社員寮に引き取り更には医療費などもいただきました」との忘れがたい恩を受けた。「その時の感謝の気持ちを表せずに今まで過ごしてきてしまい忸怩たる思いです」と心にわだかまりを残していたという。

 本紙から連絡を受けた援協事務局が、北島さんと通信して手続きを始めたが、途中、メールが不通になるなどの通信事故が発生。焦った北島さんからは「食道ステント挿入はしましたが食事も満足に摂れませんし少量ですが吐血もあり、食道がんの最終段階にあるようで体力の限界が近づいてきています」とのメールも届いていた。

 12月12日に無事に送金手続きが終わった報告をメールで受けた中島さんは、「資金が収納されたと聞き安心のため気力が一気に失われてしまいました。今は横になりその時を待ちたいと思います。出来ますれば山本勝造、千代ご夫妻の墓前に献花などして頂けると有り難く思います」と記されていた。

 心温まる寄付であるため、本紙から北島さんに生年月日や出身地、帰国後の職業などを問い合わせたところ、「最後の連絡」という件名のメールが届き、「寄付の仲介有難うございました。篤志家によるクリスマスプレゼントとして頂ければ宜しいかと思います。(中略)之をもって最後の連絡といたします」と結ばれていた。

 コロニア版サンタクロースの日本からのプレゼントは確かに届いた。援協では「山本夫妻の墓を探して必ず報告する」と話している。

 12月20日に行われた贈呈式には援協、憩の園、希望の家、こどものそのの4団体の代表が出席。憩の園の吉岡黎明会長は「入所者の8割は一世の方々。北島さんの意志は彼らの励みになる」と感慨深げに語り、こどものそのの谷口ジョゼ理事長も「突然のことで驚いているが、本当に有難いこと。大事に使う」と話していた。

注:伯=ブラジル、聖市=サンパウロ市

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