2012年の世界情勢を振り返れば、名実ともに政治の年だったと言える。世界のほとんどの主要国で選挙などが行われ、政権が交代したからだ。中国も例外ではなく、10年ぶりの政権交代が行われた。胡錦濤政権の10年間は、経済成長こそ維持したが、ほぼすべての改革が先送りされ、中国にとって失われた10年と言っても過言ではない。
専門家の間では、新しく誕生した習近平政権はカリスマ性の弱さゆえに、必要な改革を推し進めることができないだろうと見られている。確かに選挙で選ばれていない習近平国家主席は長老の前では頭が上がらないだろう。長老が改革されるべき利益集団のボスだとすれば、それにメスを入れ改革を進めようとする習近平国家主席に対して、「お前は誰のおかげで国家主席になれたと思うのか」と言うだろう。習近平に、返す言葉はないに違いない。
結局のところ、習近平政権が進める改革は、抵抗の弱い分野に集中し、激しく抵抗してくる分野の改革はこれまで通り先送りすることになるだろう。しかし、これでは、問題の解決にはならない。
忠誠心ではなく損得で結ばれている王様と家臣
一国の文化にとり宗教はプラットフォームのような存在である。一方、一国の政治にとり宗教はそれを性格付けする基礎である。政治体制のあり方について、その国の文化的特性と宗教の性格との相性を考慮しなければならない。
中国という国は4000年ほどの歴史を有している。その文化と宗教の基礎はすべて儒教である。換言すれば、儒教こそが中国の文化であると同時に宗教でもある。
儒教の教えの基本は「仁」「義」「忠」と「孝」である。民主主義ではない家父長型の社会において「忠」と「孝」はその基本である。すなわち、王様に対しては、官僚は忠誠でなければならない。親に対して子供は孝行しなければならない。
しかし、このような儒教の教えをもって社会主義政治を定義するのは十分ではない。毛沢東以来の中国政治は、マルクス・レーニンが定義した社会主義政治ではなかった。結局、毛沢東自身は部下に忠誠心を求める王様だったわけだが、鄧小平以降の中国の指導者、とりわけ江沢民以降の指導者たちは王様ではなくなった。