2008年秋、三つ星レストランのシェフが星を返上するというセンセーショナルなニュースが流れた。シェフの名は、オリヴィエ・ロランジェ。フランスはブルターニュ地方の港町、カンカールでレストランを営む三ツ星シェフである。

絶頂期に三ツ星レストランを閉じた理由

オリヴィエ・ロランジェ氏

 かの有名な「ミシュランガイド」で星が3つついたレストランは、フランス国内には二十数カ所。そのシェフともなれば、料理界では文字通りスターである。私は雑誌の取材のために、2006年に2度ほどここを訪ねている。

 2006年と言えば、彼のレストランが二つ星から三つ星に昇格した年。当時のメディアが真っ先に取材したがったシェフである。

 それから間もなくの2年後、はたから見ればまさに絶頂期といえるタイミングで、先のニュースが報じられたわけだが、その時、私はもちろん驚きはしたが、その背景にはいかにも彼らしい信条があるに違いないと思った。

 と言うのも、2006年にお会いした時の印象が、いかにも典型的なシェフ像というのとはちょっと違って、何かもっと広がりのある世界を感じさせるとても魅力的な人だったから。そして、いつかまた実際にお会いして、彼の口から「星返上」の経緯を聞いてみたいと思っていた。

カンカールの海沿いの町並み。満潮時には、海水が防波堤のすぐそばのあたりまで来る

 ロランジェ氏は1955年にカンカールで生まれた。カンカールという土地は、世界遺産にも指定されている景勝地モンサンミッシェルと向かい合って、ブルターニュの豊かな湾に面した港町である。

 現在は牡蠣の養殖と観光が主産業という人口5000人ほどの小さな町であるが、その歴史はなかなか波乱万丈で、17世紀以降には、海賊船、といっても、これはお上のお墨付きを得た、いわば合法的なものなのだが、そういった船や大航海に乗り出す船の母港として栄えたという特色を持つ。

潮の干満を利用して行われる牡蠣の養殖

 そんな土地の医者の家にロランジェ氏は生まれた。いわゆるブルジョアの家庭で恵まれた子供時代を過ごしたのだろうことは想像に難くない。

 ところが、化学を専攻する学生だった21歳の時、彼の人生に大きな転機が訪れる。数人の暴漢に襲われ、数週間の昏睡状態という瀕死の重傷を負うのである。