ニッケイ新聞 2012年6月19~21日

 2008年暮のリーマンショックに端を発した金融危機の影響で、日本に住むブラジル人労働者が「派遣切り」に遭い、3分の1にあたる約10万人が帰伯したといわれる。その中には既にブラジルに再適応して根を張ろうとする人、決心がつかずに悩んでいる人、日本に戻りたいと手を尽くしている人など様々なケースがある。

 わずか3年間で10万人が帰伯した未曽有の“民族大移動”である『大量帰伯世代』は、将来的に日系社会やブラジルに大きな影響を与える可能性があると思われる。「日本に戻るのか、ブラジルに定着するのか」。帰伯者らに聞いた。(田中詩穂記者)

(4)「もう日本に戻らない」、馴染めなかった就労体験

 日伯の行き来を繰り返し、経済危機や個人的な事情で引き挙げたことをきっかけに、訪日の選択肢をきっぱり断ち切った人もいる。今回紹介する二人は60過ぎであり、もう少しで年金受給年齢になることも、帰伯を促す理由だったようだ。

 80年代半ばから始まったデカセギブームももうじき30年を迎える中で、当時30歳前後だった二世が60歳を迎える時代になった。働けるうちは日本、でも定年退職したらブラジルとの思いが強くなるようだ。

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大山アントニオさん(2月4日撮影)

 「こっちには友達もたくさんいるし、年金もある。もう日本には行かないね。これからはブラジルにいるよ」と言い切る大山アントニオさん(62、二世)=ミナス州ベロ・オリゾンテ在住=はミナス日伯文化協会で副会長として活躍する。

 非日系の参加も多い同会幹部として、活動にやりがいを感じる日々を送る。「会長が一世だから、ポ語が必要なときには自分が役に立つ」と笑顔を見せた。

 大山さんは01年に宮城県塩竈市、03年~05年と06年~08年には静岡県富士宮市に住んだ。帰伯したのは、孫が生まれたため娘の子育てを助けるという家庭の事情からだった。

 もともと「自分はブラジル人」という意識が強かった大山さん。両親からは日本語を教えられたが「自分はポ語を話すと反発した」と笑う。

 日本語は生活に必要な最低限の単語が理解できるのみ。日本にいる間、仕事以外で日本人と接することはほぼなかった。余暇を楽しめるような情報が理解できず、日本語能力の必要性を痛感したが「もう難しくて。どうしても無理だったね」と首を振る。

 日本の良さはと尋ねると、「教育が行き届いている、治安が良い、物価が安定していることかな」と指を折った。「言葉が分かったらもっと長くいたかもしれないね」とこぼした。

 とは言え、「日本人は自分が間違っていても意見を変えない。それが理解できなかった」と体験した例を挙げた。日本人については否定的な印象が根強い。現在の生活に満足していることに加え、そんな日本人へのコンプレックスが再訪日の選択肢を消したようだ。

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 「給料はよかったが、勤めた職場の機械やシステムが古く、希望も価値もないと思った」と言い放つのは、大石哲也さん(61、二世)=サンマテウス在住=だ。10年以上日本にいたが定住しようと思ったことは一度もないと言う。

大石哲也さん(2月8日撮影)

 1997年に訪日し栃木、福島、埼玉などに住み、派遣社員として工場で働いた。経済危機後の09年4月に帰伯した。

 訪日前に企業の管理職だった大石さん。デカセギ帰りの人々が日本で学んだこととしてよく挙げる規律や時間の厳守、仕事に対する姿勢などは「自分にとってはすでに当たり前のことだった。親も厳しかったから、子供の頃から身についていたこと」と何ら新鮮なことではなかった。

 「安全、ブラジルより政府の支援や教育も充実している。あらゆるシステムがきちんと機能していることが、すごくいいと思う」と日本の良さを認めながら、「人間関係に距離がある。互いを傷つけないかわりに深く関わろうとしていないように感じた」。日本人と親しい関係を築くことはなかったようだ。

 現在は期間限定で経理の仕事をするかたわら、自身の会計事務所を開こうと準備中だ。「ブラジルを出たときこの国はあまり良い状況ではなかったが、今はずいぶん改善して経済も上を向いている」と大石さんはみる。

 「企業の数も増え、事業がしやすくなっていると思う」と伯国の今後に強い期待を寄せた。