ニッケイ新聞 2012年2月16日、17日

(2月11日から8回にわけて連載されたものを3回にまとめたものです)

第4回 敵は“ナチス残党”?! 戦争が左右した家族の運命

 60年代のボリビアが、いかに東西冷戦という世界の2大勢力が激突する焦点となったかを前節では振り返ったが、それを象徴する登場人物が“リヨンの屠殺人”だろう。

 当時、ボリビア軍事政権を支援していた米国は、驚くべき反共的人物を送り込んでいた。第2次大戦中にドイツ親衛隊の大尉だったクラウス・バルビーだ。独占領下の仏リヨンの治安責任者として赴任して数千人を死に追いやり、1万5千人以上を拷問し、“リヨンの屠殺人”と恐れられた。

 本来ならニュルンベルク裁判で裁かれるべき戦犯であり、仏政府はバルビーを必死に探していた。ウィキペディア「クラウス・バルビー」項目によれば、米陸軍情報部(CIC)は、冷戦下の対ソおよびドイツ共産党員に対する情報網に役立つ人物として、47年から工作員として保護していた。

ペルー時代の前村家のみなさん(前村家所蔵)

 それを嗅ぎつけた仏政府からの引き渡し要求が高まると、米国はバルビーに「クラウス・アルトマン」名義の旅券と必要書類一式を用意し、51年にボリビアに逃がした。ドイツ系移民が多くて潜伏に適当だった。

 64年の軍事クーデターで政権を握ったレネ・バリエントス・オルトゥーニョ将軍ら歴代の軍事政権指導者に対して、バルビーは「治安アドバイザー」を務め、共産主義組織や反政府ゲリラなどに目を光らせる役割を任じた。軍事政権とCIAが協同で実施したゲバラの拘束と処刑にも関与したといわれる。

 72年にようやく、ペルーのリマで起きた殺人事件に関与した疑いでバルビーの本名が暴露されたが、前村フレディが殺された67年には知られていなかった。

 67年にラ米連帯機構(OLAS)は第1回大会をハバナ市で開催し、「ラ米諸国へのゲリラ革命輸出」を決議した。ところが共産勢力の中軸たるソ連は、すでに武力革命路線を捨てて政治的対話方針を打ち出しており、それに同調したボリビア共産党は武力路線に反対し、ゲバラとの関係を絶ってしまった。

 そんな国際的潮流の渦にはじき出されるようにゲバラは山中で孤立無援の戦いをせざるをえなくなった。

 まるで世界史のひずみがここに集まっていたかのようだ。フレディが銃で立ち向かおうとしていた社会構造はあまりにも複雑で、敵はとてつもなく権謀術数に長けていた。

一方、ブラジル側に渡った前村家の歴史はどうだったのだろうか。エクトルは伯国の親戚に関して「もう一冊の本に値する物語がある」としみじみいう。聖市アウト・デ・ピニェイロスで洗濯屋を営む前村重朋(64、鹿児島)に話を聞くと、こちらも興味深い歴史を語り始めた。純吉の弟重春(1895―1990)が恵まれた子供9人の末っ子だ。

 父親から直接聞いた話として、「兵役検査の時、身長測定で頭の上に直角定規をガツンと落とされた父は、こりゃ、戦争なんかに行ったら何されるか分からんと、ペルーに移民する決意をしたって言っていました」という。当時はよく見られた兵役逃れだ。

 最初にペルーへ渡った兄純吉はボリビアに向かったが、重春はリマに居残り、軽食堂を経営して儲けた。戦前に自家用車と小型トラックまで所有していた人は少なかったという。ところが戦争気運が高まる中で、日本人排斥が強まった。

 愛国心が強い重春は「日本は戦争に必ず勝つ」と信じ、太平洋戦争の開戦直前に家族を連れ、家財を全て売り払って鹿児島に引き揚げることを決心した。

 当時の重春はペルー日本人会の役員も歴任し、同胞社会のリーダーの一人として活躍していた。写真を見ると見事な髭を生やし、厳格そうな風格が備わっている。

 重春の子供のうち7人はリマで生まれ、残り2人が帰国後に鹿児島で生れた。帰国前にわざわざ裁判までやって、リマ生れの子供からペルー国籍とペルー名をとり、日本国籍と日本名だけにしたという。

 米国の強い影響下にあったペルーでは日に日に日本人迫害が強まっていた。現地妻を娶った兄純吉はボリビアに居残り、弟重春は日本に帰国――これが前村家にとって、以後70年にわたる運命の分かれ道になろうとは誰も想像していなかった。かくも戦争は移民家族を翻弄した。