前回に続いて、子供の被曝を避けて福島県から他県に避難を続けている人たちの報告をする。
福島県からの帰路、群馬県P市に行くのは思いのほか不便だった。結局、東京まで戻って浅草から東武鉄道に乗った。通勤客のために乗り入れている地下鉄の終点を過ぎて、なお1時間近く北に走った。平野の向こうに、雪をかぶった山が見えてきた。群馬県のシンボル、赤城山だった。
「私の車、すぐに分かりますよ」
木下礼子さん(40)は電話で言った。
「福島ナンバーは私だけですから」
終着駅の駅前はがらんとしていた。冷たい北風が吹き抜けている。真新しい駅ビルが不釣合いだった。黒い軽ワゴン車の横で茶髪のロン毛ママが手を振っていた。木下さんだった。
「車、ボコボコでしょ?」
木下さんは運転しながら笑った。そうですか、と私は曖昧に答えた。南相馬市でも毎日車だったんでしょう? だったら・・・そう問うたが、木下さんは答えなかった。
事情はすぐ分かった。ずっと南相馬で生まれ育った木下さんは、避難してきたP市の地理に不慣れなのだ。迷子になり、切り返しやバックを繰り返すうちに、あちこちで車をぶつけたのだ。
「近寄るな」と言った娘の同級生
ファミレスのテーブルで向かい合った。
木下さんに面会の約束をするのは大変だった。小学校5年の娘さんはバスケットボール。3年生の息子さんは野球。練習や試合の送り迎えに行ったり来たりで、自分の時間が取れないのだ。
「お子さんが『放射能が伝染(うつ)る』と学校でいじめられたと聞きました」
私は単刀直入に聞いた。そんな話が本当にあるのか、被曝者への差別・偏見が今もあるのか確かめたいと告げた。木下さんは「ああ、その話か」という顔をした。
「娘が一度言われたことがあります」