春といえば入学に進級ということで、今回は私の高校時代について書いてみようと思う。

 私の出身高校は神奈川県立茅ケ崎北陵高校という。

 宇宙飛行士として、現在、国際宇宙ステーションに長期滞在中の野口聡一さん(44歳)は高校での1学年後輩になる。もっとも、彼のことはまるきり知らなかった。

 私の年子の妹は野口さんと同学年だったが、同じクラスにならなかったせいもあって、彼の名前を聞いたことがある程度だというから、特に目立つ人物ではなかったらしい。

 「今年、久しぶりに東大に行くやつがいてさあ」

 大学1年目の春休みに帰省した折りに元担任からそう知らされて、私は「へー」と答えた。今から思えばその「久しぶりに東大に行くやつ」が野口さんだったわけである。

 といった次第で、わが母校は大学進学率は高くても、東大京大といった難関大学に多数の合格者を出すようなハイレベルの高校ではなかった。

 おまけに茅ケ崎といっても海のそばではなく、高座郡寒川町との境にあって、近隣の農家が飼う牛の臭いが教室にまで漂ってくる。夕方になると、校庭には蚊柱が立ち、サッカー部員だった私は練習中によく蚊を飲み込んだ。

 そうした環境は、私の卒業から四半世紀が過ぎた今もたいして変わっていないようで、後輩たちも蚊柱に悩まされているのかと思うと、何がなし愉快になる。

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 茅ケ崎とは名ばかりの片田舎の高校にふさわしく、先生たちも呑気だった。

 体育教官の一団は、月に1度、平塚方面へ夜遊びに繰り出しているという噂だったし、若手の教員たちは夏休みの出勤日を調整し合って、ひと月近くも海外旅行に出かけていた。

 そうした中に倫理社会を受け持つ中沢先生(仮名)という男性教諭がいた。色白で彫りの深い顔立ちにウェーブのかかった黒髪をなびかせて、教科書の内容をとっかかりにして、豊富な知識と意表を突く話題で生徒を引きつける。

 倫社は共通1次テストに向けての選択授業で、受講する生徒が20人程度だったせいで先生も気楽だったのだろう。単なる無駄話にしか思えないことも多かったが、私は週に1度の中沢先生の授業を楽しみにしていた。