味の素の九州工場は、2001年に工場閉鎖に追い込まれました。しかし、巧みなリーダーシップの下、コストを2分の1カットしたり、要員を極小化したりするなどの困難を乗り越えながら、現場の「壁を乗り越える達成感」=「働く喜び」を引き出し、工場を再生していきます。

 100年という長い歴史のなかで培われたDNA「本気でやるならやらせてみよう」が競争力のある工場の再生を果たしたのです。

工場閉鎖の迷い

 1908年、東京帝国大学(現東京大学)の池田菊苗博士が、世界で初めてグルタミン酸が昆布のうま味成分であることを突きとめ、翌年にそれをうま味調味料として世に送りだしたのが、味の素(東京都中央区)の始まりです。

 2009年に創業100年を迎え、次の100年はグローバル健康貢献企業グループとして、「いのちのために働く」という志を掲げています。そんな歴史ある味の素にも、いくつかの転機がありました。ここで紹介する九州工場の再生ストーリーは、その1つです。

 同社の現副社長である戸坂修氏が、九州工場に工場長として赴任したのは、2001年7月のこと。そのミッションは、九州工場の閉鎖でした。

 当時、世界の穀物メジャーがアミノ酸事業に進出し、世界的な競争は激しさを増していました。加えて、日本のメーカーの多くはコスト削減を目標に生産拠点を中国に移しており、味の素内部では九州工場の存在意義が問われていたのです。

 戸坂氏は、九州工場工場長就任にあたり、当時担当していたモスクワの研究所で退任の手続きを進めていました。手続きを終えて帰国するまでに、九州工場就任に向けた挨拶文を作成しなければなりません。

 それは、着任と同時に、工場の閉鎖を宣言するものとなります。しかし、戸坂氏は一向に挨拶文を作ることができませんでした。心の中は、本当に九州工場を閉鎖してよいのかという迷いでいっぱいだったからです。

九州工場の火は消さない

 九州工場がある佐賀県佐賀市諸豊町の周囲には、味の素以外に大きな会社はありません。1943年の工場設立以来、地域の多くの人々が九州工場で働き、何十年も続く協力会社が工場の敷地内に共存しています。まさに工場と地域が、共生しているのです。

 加えて、2001年時点でその後の30年以上にわたり工場で勤めなければならない若い従業員が200人以上いたため、戸坂氏は悩みました。

 「この九州工場の火を消して、よいものだろうか?」

 戸坂氏の想いは、九州工場のみならず、日本のものづくりの意義にまで及んだといいます。我々は、何のためにものをつくるのか。国内の工場は何のために存在するのか。資源のない日本は、世界の中でどう生き残っていけばよいのか。

 挨拶文は、書いては直し、書いては直しの繰り返しとなりました。それは、リーダーが重大な決断を本当に腑に落とすために、必要なプロセスだったのでしょう。

 「日本には、技術しかない。人しか、いないんだ」