伊藤博文

 歴史上には様々なリーダー(指導者)が登場してきました。そのなかには、有能なリーダーもいれば、そうではない者もいました。彼らはなぜ成功あるいは失敗したのか?また、リーダーシップの秘訣とは何か?そういったことを日本史上の人物を事例にして考えていきたいと思います

生まれながらの武士の子ではなかった

 伊藤博文(1841~1909)は初代の総理大臣として頗る著名な人物です。大日本帝国憲法の制定に尽力し、また立憲政友会(1900年に結成。同政党は40年間にわたり、近代日本政治史に重要な位置を占めた)を組織したことなどはその大きな業績と言えるでしょう。では博文の生い立ちはどのようなものであり、彼はなぜ総理大臣にまで出世することができたのでしょうか。

 博文が生まれたのは天保12年(1841)のことです。出生地は周防国(山口県)熊毛郡束荷村でありました。博文の父は伊藤十蔵と言い百姓でしたが、故あって萩に赴き、萩藩の中間・水井武兵衛の傭人となります。水井武兵衛は後に伊藤直右衛門と名乗りますが、十蔵とその妻・琴子(博文の母)はこの伊藤氏の養子になりました。

 これにより、博文と萩藩(長州藩)との関係が生まれたのです。以上、述べてきたことからも分かるように、博文は生まれながらの武士の子ではなかったのです。縁というものは人の生涯にとり重要なもので、博文もその後、様々な人と結ばれて、長州藩において重きをなしていきます。その1つが来原良蔵(1829~1862)との縁です。

 来原は長州藩士として西洋砲術などを学び、藩の軍制改革に尽力した人物ですが、博文はこの来原の配下となります。

 博文は明治維新の精神的指導者と言うべき吉田松陰の松下村塾に入門することになりますが、博文を塾に紹介したのは来原でした。また来原良蔵は桂小五郎(後の木戸孝允。明治維新の元勲であり、維新三傑の1人)の義弟であり、その縁で博文は木戸にも接近することができたのです。そうした縁が重なって、博文は長州藩で重きをなすようになり、維新後は大日本帝国憲法の立案を担うことにもなるのです。

 と言うのも明治政府というのはご存知のように、薩摩藩・長州藩が主体となった政府でした。「薩長の政府であった」と言っても過言ではありません。もし、博文が他藩の出身者であったならば、または旧幕臣であったならば、いくら優秀であったとしても、総理大臣を何度も務め、指導力を発揮する事はできなかったと思われます。つまり、博文には藩閥のバックがあったのです。